【00】鬼
せめてまともに働きたいと彼に申し出たところ激怒された。
女は、スリップ姿のままダイニングの床に正座させられ、髪の毛を鷲掴みにされる。
「てめぇ……何、生意気な事を抜かしてやがる。お前は俺の言われた通りにしてりゃいいんだよ。あ?」
彼が女に手をあげる事はあまりない。
少なくとも目立つ傷が残るような行為はしてこない。
なぜなら商品価値がさがるからだ。
しかし、玩具が死んでしまったときは別だ。
玩具がなくなると、彼は女に対しても酷く暴力的になる。
今朝、餌をやったときには、まだ玩具は生きていたはずだ。
だから、必死に謝れば機嫌を損ねた事を許してくれるかもしれない。
それだけが唯一の希望だった。
「お願いします……お願いします……許してください……許してください……許してください……」
「うるせぇんだよ、馬鹿女が!」
女はまるで飼い主に媚を売る雌犬のように、必死に彼の下半身にすがりつく。しかし、足蹴にされて腹を蹴られ、床をのたうち回る事となった。
「うあぁ……痛い……」
「そりゃあ、おめえが悪いんだろうがよっ!」
もう一発、腹を蹴られた。これで女の心は完全に折れた。謝っても無駄なのだ。そう諦めた。
そもそも、最初から暴力の必要性がないぐらい、女は彼に対して脅えきっていた。
彼への恐怖が、たっぷりと心の中に刷り込まれていた。怒声一つで身体中の筋肉がこわばり、胃袋が痙攣してしまう。
何度となく繰り返されてきた心身への暴力に何をやっても無駄だという無気力が、脳裏に刷り込まれていた。
そして、女が彼に逆らえない理由はもう一つあった。
「お前さ、俺に反発してんの?」
女は激しく首を横に振った。次第に息が荒くなり、嘔吐き出す。
そんな彼女に対して、彼は容赦なく怒鳴り声をあげ続ける。
「だいたい、おめぇみてえな世間知らずのアマに、まともな働き口なんざある訳がねえだろうがよ!」
実際にそうだった。
学生時代も、卒業してからも、簡単なアルバイトすらした事がない。
彼は、それを良く知っているのだ。
「……お前なんざ、股開いて、男引っ張ってくるぐらいしか、脳がねえんだから、余計な事を考えてんじゃねえよ、この売女が!」
彼はそう言って冷蔵庫を開けた。
「畜生! 馬鹿女のせいで苛つくぜ」
発泡酒の五〇〇ミリ缶を開けて、それを一気に煽り口元を手の甲でぬぐった。
「……それとも何か? おめぇの大切な娘にウリさせようか?」
女の顔が青ざめる。
彼が邪悪な顔で、ひひひっ……と笑い肩を揺らす。
「これぐらいの小せぇのが好きなやつも、いるからなぁ……うぃひひ」
女が彼に逆らえない一番の理由は八歳になる娘の存在だった。
彼女は娘を人質に取られていた。
「や……やめて……くださ……うっ、おぇ……」
女は背筋を震わせて床に吐瀉物を撒き散らした。
それを見ながら彼は、目を細めて楽しそうに笑う。
「おー、おー、おー……そんなザマで、よくもまあ、まともに働きたいだなんて、でけぇ口を聞けたもんだよ、まったく」
発泡酒を呷り、まだ中身の入っている缶を女に投げつける。
缶が飛沫をあげ床に転がる。
「てめぇ、それを片付けたら、とっとと風呂に入って、仕事いけや……解ったら、返事!」
「は……い」
女はよろよろと立ちあがり、雑巾を持って床を拭く。
彼の方は再び冷蔵庫を開けると、新しい発泡酒を取り出して飲み始めた。
ひとしきり喉を鳴らしたあと、ぽつりと呟くように言う。
「あと、さっき、玩具がぶっ壊れた」
……ああ、それでか。
女は得心した。せっかく、玩具が生きているうちに勇気を振り絞って「まともに働きたい」と話を持ち出したのに。
女は床を見つめたまま、歯噛みした。どうやら最悪のタイミングだったようだ。
「てめーの世話がなってねえからだぞ?」
「はい、すいません」
「仕事が終わったら、片付けておけよ。ほっとくとアレ、クセえからよ」
くくく……と、彼は肩を揺らして笑う。
女は流し台の蛇口を捻り絶望的な眼差しで、汚れた雑巾をすすいだ。
それから三日振りにシャワーを浴びると着替え、化粧をして何食わぬ顔で町へと出かけた。
二〇二〇年六月十三日の昼前だった。
この日、朝から続いていた小雨は止んだが、その名残の黒雲はまだ空一面に漂っていた。
免許センターのエントランスホールに並ぶ待ち合い椅子に腰をおろしながら、茅野循は小栗虫太郎の“黒死館殺人事件”を読んで時間を潰していた。
すると、そんな彼女の元に桜井梨沙が実に嬉しそうな顔でやってくる。
両手を後ろ手に回し彼女の前に立った。
「待ったー?」
茅野は視線をあげて首を横に振る。
「……で、どうなのかしら?」
すると、桜井は、ほくそ笑みながら背中に回していた両手を前にして茅野の眼前にそれを掲げる。
「じゃーん!」
その両手に持たれているのは運転免許証であった。証明写真の四角の中では、眼鏡をした桜井が普段はあまり見せない澄ました顔をしていた。
茅野は「おめでとう」と微笑みながら、ぱらぱらと拍手を打つ。
「どうも、どうも」
と、桜井は若干照れ臭そうに頭をかいた。
座学全般を苦手とする桜井であったが、いったん興味を持ちスイッチが入ると吸収も早い。
学校に行きつつ、バイトもしつつ、そして心霊スポットを探訪しながらも、見事に一月で一発合格を決めてみせたのであった。
そんな親友の努力の成果に、茅野は嬉しそうに目を細める。“黒死館殺人事件”の文庫本をパタリと閉じて鞄の中に入れながら言う。
「……それでだけど、今日は貴女の誕生日でもあるわ。おめでとう」
「ああ、うん。忘れてた」
「だと思ったわ……」
そう言って、茅野は鞄からリボンのついた十センチ程度の紙袋を取り出す。
「これ、誕生日プレゼントよ」
「おっ、何だろう? 開けてみてもいいかな?」
「どうぞ」
桜井が紙袋を開くと、中から出てきたのは革のパスケースであった。
「イタリア製の牛の本革よ。免許証を入れてみて」
「うん」と返事をして、さっそく免許証をパスケースに入れ、ためつすがめつする桜井であった。
「気にいってくれたかしら?」
「もちろん嬉しいよ」
「それなら、もういい時間だし、帰ってお昼にしましょう。速見さんのところで」
茅野が椅子から立ちあがる。
「バースディケーキならぬ、バースディXだね!」
因みに“X”とは、桜井の好物であるトーキョーXの事である。
二人は速見立夏の生家が営む『焼肉はやみ』へ向かう事にした。
「それにしても……これで、自由にスポット行き放題だねえ」
「そっちの方もちゃんと考えてあるわ……来週の日曜日でどうかしら?」
「さっすが、循! もちのろんだよ!」
そんな呑気な会話を交わしつつ、二人は免許センターの出口の外にあるバス停へと向かうのだった。