【07】第一ラウンド
東藤綾は徳澤との一戦終えたあと、二階の階段前で非常識な重さなリストバンドやアンクレットを外した。
「これは、絶不調な訳だ」
ジャージを脱ぎ、非常識なベストも外す。
そして、再びジャージを着ようとしたそのときだった。
右目の上が切れている事に気がついた。触ると指先に赤い血が滲んでいる。
掌や膝にも擦り傷がついていた。
「あの男とやったときか……」
硝子の散らばる床に倒されマウントまで取られたならば、こうなって当然である。東藤は自らの未熟さに落胆し歯噛みするが……。
「まあ、夢だし」と素早く切り換える。
そして、桜井梨沙の探索を再開しようとした。その瞬間だった。
遠くからヘリコプターの音が聞こえてきた。
その音につられて何気なく東藤は天井に視線を向ける。
すると、なぜかそこには血塗れの女の顔があった。見た事のない顔だ。
「は?」
凍りつき固まっていると、その女の顔から血の滴が滴り落ちる。
ヘリコプターの音がどんどんと近づいてくる。
唐突に世界が真っ暗闇に染まった――
「え……?」
古びた箪笥の上に置かれた年代物のラジオ。
蜘蛛の巣まみれの安楽椅子。
次に東藤が気がつくと、見知らぬ部屋にいた。
ギロチン窓からは鬱蒼とした木立が臨めた。
どうやら、さっきの館の二階のどこからしい。東藤はすぐにそれを悟る。
「流石は夢。訳が解らないわ」
そんな呑気な感想を漏らし扉を開けて廊下に出た。
正面に並んだ割れ窓を覗き込むと、左側に玄関の庇の屋根が見えた。
そこから現在の位置が、二階階段前から北東に延びた廊下の先である事を悟った。
「さっきのは何だったの……?」
首を傾げ独り言ちると、左側の方から人の話し声が聞こえた。
そちらに顔を向けると……。
桜井梨沙と茅野循が歩いてくるではないか。
「桜井梨沙! 私よ!」
東藤は右手を振りあげて、犬の尻尾のように振り乱した。
「どうせ夢だし、一緒に“何でもあり”しましょう!」
そのまま駆け出す。
桜井と茅野は慎重な足取りで二階の階段前から北東の廊下へと進む。
すると十メートル程度前方だろうか。
白いもやもやした人影が窓辺に佇んでいた。
「循!」
「ええ。梨沙さん……」
茅野は肩から掛けたデジタル一眼カメラのレンズをその白い影に向けた。
白い影が二人の方を向いた。
眼窩のへこみや鼻の頭の隆起が辛うじてある程度で人相は解らない。しかし、その小柄なシルエットはどうも女性のものであるように思えた。
桜井と茅野が足を止めて様子を窺っていると、白い影は何やら右手をあげて振りながら、嬉しそうに駆け寄ってくる。
「あれは……。たぶん、戦いたいって事だよね?」
「何でそうなるのよ」
真面目な顔で宣う桜井に突っ込む茅野。
しかし、その冗談が的を射た解釈であったと、この数秒後に二人は気がつく事となる。
まるで、待ち合わせた恋人の元へと駆け寄るときのような、弾む足取りで近づいてくる白い影。
桜井が警戒心を顕にして、茅野の事を庇うように一歩前に出る。
白い影が桜井に掴み掛かり襟を取ろうとする。
「む……やる気か!?」
その手を弾きあげ、今度は桜井が右突きを白い影の顔面に放つ。
白い影は上体を反らし鼻先でかわそうとするが握られていた人差し指と中指が突然伸びる。
幽霊だし別にいいよね……そんな軽いノリで繰り出されたのは、すべての格闘競技で反則行為とされる技“目潰し”である。
半身の体勢になり回避する白い影。鼻先を凶悪極まりないチョキが通過する。
桜井は更にその右手で襟を取ろうとしたが空を切る。
しっかりと読んでいた白い影が身を屈めたからだ。そこから続けざまに両手で桜井の両脚を刈りにきた。
柔道の刈り技の中でも手で脚を刈る唯一の技“双手刈”である。
桜井は技が決まる寸前で後ろに飛び退きながら白い影の背中を両手で上から叩いた。
すると白い影が体勢を崩しつんのめる。床に手を突いた。
その後頭部に高々と振りあげた右脚の踵を落とす桜井。
今度は白い影が猫のように飛び退く。
ほんのワンテンポ遅れて鉄槌のような踵が床板を打つ。
白い影は体勢を立て直し身構える。
睨み合う二人。
両者の攻防を見守っていた茅野は大きく目を見開いて一言。
「何なのよ……これ」
桜井は楽しそうに笑っていた。まるで、あのときの決勝のように……。
「ねえ、循」
桜井が突然現れた好敵手を見据えたまま言った。
もう彼女が何を言いたいのかだいたい解ってしまった茅野であったが、一応は聞き返す事にした。
「何かしら?」
「こいつ、あたし一人に戦らせて」
「気をつけて」とだけ言った。
あの桜井梨沙の動きにここまでついていける、何かよく解らない白い影……。
さしもの茅野もただ驚愕する以外になかった。
そして彼女も桜井も、気がついていなかった。
忍び寄るもう一つの存在に……。
桜井梨沙が笑っている。あのときのように……。
東藤綾も笑っていた。
しかし、その笑顔は桜井と茅野には見えていない。
戦局は柔道家同士らしく、組み手争いへと移行した。
両者、自分が有利な体勢で釣り手と引き手を掴もうとし、相手のそれを阻止しあう。
その高度な攻防を見ながら茅野は一言。
「何なのよ……これ」
突然始まったバトル。
聡明な彼女であっても自分が何を見せられているのかよく解らなかった。
一方、戦いの激しさは昇り始めた暁のように次第に苛烈さを増してゆく。
そして局面が膠着し、しばらく経ったそのときだった。
二人は一進一退の攻防を繰り広げながら開け放たれたままの扉口の横に辿り着いた。
両者が仕切り直そうとお互いにいったん距離を取ろうとした瞬間――。
「うおおおおっ……化け物、死ねえええっ!」
その室内より徳澤祐司が飛び出してきて、東藤綾の腰に両手を回して組みついた。
東藤は一つの事に集中すると周りが見えなくなる悪い癖を発揮してしまった。また、どうせ夢であろうという油断もあった。
バランスを崩し窓辺まで押されてしまう。
そして、彼女の身体が硝子の割れ落ちた窓枠に押しつけられた瞬間だった。
めきっ、と、嫌な音がして格子の窓枠が折れた。
そのまま東藤は外へ落下する。しかし彼女もただではやられない。
「邪魔をするなぁあッ!!」
徳澤の奥襟と右腕を抱えて放さない。
両者は二階から転落した。