【06】やべーやつ
遠藤の知り合いだという闇医者の営む山谷の病院で、徳澤はしばらく療養を続けたあと、川崎の独身寮の自室へと帰る。
そのときには既に年は開けており、一九六六年になっていた。
会社には翌日より出社すると電話で連絡し、徳澤は自室を見渡した。
男やもめの薄暗く湿った部屋。
彼は几帳面な性格なので片づいてはいたが、寒々しくて侘しい。
その墓地のような六畳の中央に敷かれたせんべい布団の上にどかりと腰をおろして、徳澤は胡座をかいた。
そして彼はペンダントの他にもう一つ、遠藤から受け取ったものを鞄から取り出す。
それはシガレットケースのような金属の箱で、蓋を開けると中には親指程度の薬瓶が四本入っていた。
これも例の術を行う為に必要なものなのだという。
徳澤の脳裏に遠藤の声が蘇る――
『術のやり方は簡単です。首にあのペンダントをかけて安全な場所で、この小瓶の薬を飲んで横になる……それだけでさぁ……』
遠藤によれば小瓶の薬は『特殊な眠り薬』らしい。
この眠り薬の効き目が一瓶十五分前後で、それが“生霊化”していられる制限時間となる。因みに薬は遠藤の知り合いの闇医者に頼めば購入できるのだそうだ。
更に――
『最初は慣れが必要です。上手く生霊になれなかったり、想い人の元へと行けなかったり、自由に動けなかったり……薬を少しずつ飲んで、練習してコツをつかんでください』
闇医者の病院で、何度か試したが言われた通りであった。
最初は眠っている自分をベッドの横から見おろしている光景が見えるだけだったり、真っ暗闇の中を泳いでいるような感覚だったり……。
確かに中々上手くいかない。
これはかなり慣れが必要であると実感できたと同時に、徳澤は妙に納得した。
やはり、こんな便利で都合のよい術は簡単に使えないのだ。
もしも、お手軽にできるなら世界の誰もがやっている。
遠藤の話では、舶来の呪い師が何年も厳しい修行してやっと身につける事のできるものを短期間で無理やり使えるようにしたのが、この術であるらしい。
本来ならば資質や相性、そして頑強な精神と肉体がそろって、初めて術は完成するのだそうだ。
おまけに術の練習が終わると、いつも凄まじい疲労感が全身を襲う。
脳が頭蓋の中から焼けつく感覚。そして、全身が鉛のように重たくなり怠い。
その癖に目が冴えて普通に眠る事もできなくなる。
これは、かなり練習を積まなくてはならないと感じはしたが、確かな手応えもあった。
ときおり見える事のある光景。感じられる風の音と臭い。
自分の意識が距離を無視して、どこかの見知らぬ土地へ飛んでゆく感覚。
そして、このまま練習を重ねれば、いずれは術を体得できるという手応え。
取り合えず四月までには、どうにか自由に動けるようになろうと徳澤は目標を定めた。
彼は横井圭子の結婚が早まった事を、この時点では知らなかった。
ゆえに、それまでに術を体得し清らかなままの横井をモノにする……。
しかし、それから間もなくであった。
自分が闇医者の病院で横たわっているうちに、横井が結婚していた事を知り、盛大に発狂する徳澤。
これが横井――菅原圭子殺害の動機となった――
「……あああぁ、目がぁっ! 痛い……あの女……畜生ッ!!」
東藤を逃がしたあと床に転がりながら悶絶していた徳澤は、ふと気がつく。
「……あれ?」
左目が何ともない。硝子片で貫かれたはずなのに……。
左目を押さえていた掌にも血はついていない。
「どういう事だ?」
そこで遠藤の言葉が蘇る――
『……気をつけてください。五感はあるので、当然ながら生身と同じように痛みも感じます。怪我をすれば、本物の肉体にも影響がでます』
「……確かに、あの女の子は、俺の左目を……」
何もかもがおかしい。
徳澤は辺りを見渡す。
「そもそも、あの子はいったい何者なのだ」
当然の疑問である。
だいたい、どうして、あのペンダントを持っているのだろうか。
「まさか……」
そこで、徳澤はまたもや遠藤の言葉を思い出す――。
『もしも、術の最中におかしなモノを見たとしても無視してください。それはこの世のモノではありません』
「じゃあ、あの女の子は……」
徳澤はぞっとして二階へ続く階段を見あげた。
このまま、あの首飾りは諦めるべきか。
しかし、どうせ時間が過ぎれば元に戻る事ができる。
川崎の独身寮の自室で横たわったままの自分の身体へと……。
ならば、ぎりぎりまで足掻いてみても損はないだろう。
徳澤は東藤の後を追って二階へと登った。
桜井と茅野は弁当を食べ終わると、寝室をあとにした。
左翼二階の他の部屋を探索しながら、二階中央にある玄関ホールへと降りる階段の前へと向かう。
「あれ? さっきはあんなの落ちてたっけ」
先に気がついたのは桜井であった。
階段の前の床に何かが落ちている。
二人は近づいて、その物体を手に取り確認した。
「トレーニング用のリストバンドにアンクレットよね……?」
流石の茅野も困惑気味に首を傾げる。
「ベストまであるよ」
桜井が黒いナイロン製のチョッキを持ちあげる。
「誰かがこれを着けて、ここまできたのかしら?」
茅野の言葉に桜井が首を横に振る。
「いや。こんなの山歩きに着ていい重さじゃないよ、これ」
そして、リストやアンクレットを次々に持ちあげながら、その重さを確かめる。
「これをぜんぶ一人の人間が着けていたのだとしら相当だよ。こんなの着けてたらまともに動ける訳がない」
「トレーニングに着けてきたはいいけど重くなったから脱ぎ捨てたとか……」
茅野の推測に桜井は笑う。
「いや、どうだろう。こんなの最初から解るでしょ。無茶だって」
「貴女がそう言うのならばよほどね」
すると、その瞬間だった。
北東へ延びた右翼二階の方から扉の開く音がした。
桜井と茅野の位置からは、どこの扉が開いたのかは解らなかった。
「循……」
「ええ。梨沙さん。誰かいるみたいね。このトレーニンググッズの持ち主かしら?」
「本当にこれをぜんぶ着けて、こんな山奥まできたのだとしたら相当やべーやつだと思う。気をつけよう」
「そうね。梨沙さんが言うのだから、余程だわ……」
二人は気を引き締め直し、北東へと延びた通路の先へと向かった。