【13】歪な家族
「死いねええぇぇ……!!」
狂人のように唾を吐き散らし、静香はナイフを突き出した。
茅野は微動だにしない。
切っ先が鼻先の数センチ前まで迫った、その瞬間であった。
「ディスタンスは守ろうよ」
極めて緊迫感に欠ける声音が響き渡った。
桜井梨沙である。
静香の右手首は、桜井の左手でがっしりと押さえられていた。
「放せッ! 放せッ! 放せぇえッ!」
静香は右手を大きく振り乱すが、まったくびくともしない。
桜井は空いた右手で、まるで庭先の雑草でもむしるかのような軽さで、くだものナイフを静香から取りあげた。
「何なのッ!! あなたたち、何なのよぉおッ!!」
中腰で手首を掴まれまま絶叫する静香の顔を見あげ、茅野は淡々と冷静に言葉を吐いた。
「これは、あくまでも私の個人的な意見ですが……」
「何よ……何なのよ……放して! 放してよ!」
もがく静香。
しかし、桜井は手を放さない。
「例えば私は、何かの凶悪犯罪が起こったとしても、その犯人の両親にまで事件の責任をとおうとは思いません。最初から誰も自らの子供を殺人鬼に育てようだなんて思ってはいない。そんな事は証明するまでもない」
「そうよ……私は……あの子を……可愛がって……可愛がっていただけ……そんなの親として当然でしょ……? なのに何で……」
静香の血走った瞳から、大粒の涙が溢れてローテーブルの上に落下する。
彼女の全身から力が抜ける。
桜井が掴んでいた右手首を放した。すると、静香はよろめきながら再びソファーに腰を落とす。
「親として当然……確かにそういうものなのかもしれませんね。私にはさっぱり理解できませんが」
冷え冷えとした声音で茅野は更に続ける。
「……でも、もしも、二〇〇九年の千村双葉さんの末路をご存じならば、貴女は責められるべきだ。息子さんが面白半分に断罪しようとした山田利美さんとは違い、貴女は共犯者なのだから」
「共犯……者……」
呆けた顔で茅野の言葉を鸚鵡返しにする静香。
茅野はゆっくりと深く頷く。
「貴女は、息子さんが千村双葉さんを殺したのを知りつつ今まで見てみぬ振りをしてきた。あの黒猫坂屋敷の生簀に千村双葉の死体が沈んでいる事を知りつつ、忘れた振りをしていた。息子さんの罪を告発する義務を怠った。犯罪の隠蔽に荷担した」
「ああ……」
そこで、静香はすべてを思い出した。今まで忘れた振りをしていた事を……。
「ならば、貴女は息子さんの共犯です。貴女も息子さんと同じく罪人なのです」
「あああ……うっ、う……」
静香は両手で顔を覆い、泣きじゃくる。
そして、あの日の記憶を脳裏に甦らせた――
千村双葉が家にあがり、寿康の部屋へ向かってから三十分近くが経った。
居間で炬燵に入り、テレビを見ていると、隣で新聞を読んでいた善一が、ぼそりと呟く。
「あの子……大丈夫かの……」
少し間を置いて、テレビに目線を置いたまま静香は聞き返す。
「大丈夫って、何が……?」
答えは返ってこなかった。
誤魔化すような咳払いと、新聞をめくる音だけが聞こえてきた。
二年前、寿康に金属バットであばらを折られて以来、ずっとこんな調子だ。
静香が幼い頃の善一は厳格な父親であったが、あの出来事があってから、まったく覇気がなくなってしまった。
正直に言ってしまえば、静香も少しは不安だった。
それでも、同じ屋根の下に母と祖父がいるのだから、いくら寿康でも滅多な事はしないはずだ。
静香は、そう信じていた。
テレビの画面が切り替わる。番組はワイドショーで、釧路川にラッコが現れたというニュースが報じられた。
そのときだった。
突然、どたん、ばたん……という騒がしい音と共に、寿康の怒鳴り声と少女の悲鳴が聞こえてきた。
静香は善一の方を見た。
善一は床に広げた新聞に目線を落としたまま、我関せずといった様子だった。
テレビの中では、水面に浮かぶラッコの映像が流れていた。
そのまましばらく、そのニュースを見ていたが、アナウンサーの声がまったく頭に入ってこない。
物音は激しくなり、寿康の怒声もヒートアップしてゆく。
そして、唐突に訪れる静寂……。
ラッコのニュースが終わる。
静香は流石に不安にかられて立ちあがる。
居間をあとにする瞬間、新聞をめくる音が耳をつく。
足早に二階への階段をのぼり、寿康の部屋へと向かった。
「トシちゃん……何か凄い音が聞こえたけど、大丈夫かしら?」
入り口の戸を開けた。
すると、ベッドの上に寝そべった千村双葉の腹に腰を落とし、馬乗りになった寿康の姿があった。
その両手は千村の細い首にかかっている。
彼女の瞳は硝子玉のように輝きを失っており、瞬き一つしていない。
半開きの口からは、長く伸びた舌がだらりと垂れていた。
顔色は精気のない土気色で、スカートの裾が大きくまくれあがり、青ざめた少女の太股が露になっていた。
「と、トシちゃん……その子、大丈夫なの?」
静香が問うと、寿康は忌々しげに顔を歪めて立ちあがり、戸口までやってくる。
そして、憤怒の形相で怒鳴り声をあげた。
「勝手に覗いてるんじゃねえよッ!!」
そう言って乱暴に戸を閉めた。
静香はしばらくその場で立ち尽くしたあと、居間へと戻った。
善一はまだ新聞を読んでいた。
静香は再び炬燵に入り、何事もなかったようにテレビを見始める。
あれは、単にふざけあっていただけだ。何て事はない。二人ともまだ子供なのだ。何て事はない……彼女は必死にそう思い込む事にした。
それから時は流れ、夕御飯を食べているときだった。
静香はふと寿康に尋ねた。
「あの子は?」
「もう帰ったよ」
そっ気ない答えが返ってきた。
あの子が階段降りる足音も、廊下を歩く足音も、別れの挨拶の声も、玄関の扉を開け閉めする音も静香は聞いていない。
しかし、息子が帰ったというならそうなのだろう。きっと聞き逃したのだ。
静香はそう思う事にした。
善一は何も言わず、茶碗を持ちながら暗い表情で箸を動かしていた。
この翌日の朝だった。
静香は、土蔵の中にしまわれていた人間がすっぽり入れそうな大きさの長細い木箱を、寿康が生簀の中に落とす姿を目にした。
彼女は木箱の中に何が入っているのか、考えようとはしなかった。