【11】暗い部屋
けっきょく、九尾天全は何やかんやと宥めすかされ、二人に協力する事となった。
『……水面に佇んでるわ。女の子が。中学生くらいかしら? コートを着て赤いマフラーをしている』
そのスマホ越しの言葉を耳にして、桜井と茅野は顔を見合わせる。
「冬服……あの行方不明になった女の子だ……」
「間違いないわね」
『ちょっと、いい加減にどういう事なのか事情を説明してよ』
九尾に乞われ、茅野はこれまでの経緯を説明した――。
『成る程。たぶん、その霊は二〇〇九年に行方不明になったという千村双葉という少女で間違いないわね』
「じゃあ、やはり彼女の死体は、この生簀の底に?」
『恐らくは……』
と、九尾が茅野の推測を肯定する。
そこで桜井が生簀に向かってファイティングポーズを取りながら、九尾に問うた。
「で、その幽霊は、殴っていい系の幽霊?」
『殴っていい系って、どういう系なのよ』
と、呆れて笑う九尾。
『危険かどうか……という意味なら、危険性は、ほとんどないわ』
「そなんだ……」
ファイティングポーズを解いて、肩を落とす桜井だった。
『力は凄く弱い。たぶん、死ぬときの恐怖が大き過ぎたのね。生前に自分と縁の深かった場所や人間の元に現れて、佇む事ぐらいしかできない』
「ふうん……でも、なら何で土蔵の中に逆さまになって現れたの?」
『それは、わたしも知らないけど……』
と、九尾が困惑気味の声をあげた。
そこで、茅野は右手の人差し指を立てて得意満面に微笑む。
「それは、心霊写真だからよ」
「しんれい……しゃしん……?」
桜井が眉間にしわを寄せて首を傾げた。
『どういう事なの? 循ちゃん……』
「まず、音声のみだと九尾先生が解り辛いだろうから、ビデオ会議アプリで繋ぎ直したいわ。いったん、切るわね」
『ちょっ……』
茅野は九尾の返事を待たずに通話を終え、手早く準備をし始めた。
「じゃあ、準備はいいかしら?」
『大丈夫だけど……』
茅野が手にしたスマホ画面には、釈然としない様子の九尾の顔が映っていた。背景は店のカウンターである。
「それじゃあ、始めましょう」
そう言って茅野は、土蔵の中に戻る。桜井も後に続いた。
「まず、この土蔵は窓や入り口の扉を閉めると、ほとんど光が入ってこない……梨沙さん、扉を閉めて」
「りょうかーい」
桜井が入り口の一枚扉を閉める。
『確かに一気に暗くなったわね』
「そして、ほら、見て……」
そう言って、土蔵の生簀側に面した窓にスマホのカメラを向ける。
「あの窓は、恐らくは野添さんが、ここを訪れた八年前も、ああして板で塞がれていたに違いないわ」
「ふむ……」と、鹿爪らしい顔で頷く桜井。
茅野はそこで右手の人指し指を横に振る。
「ただし、八年前、窓を塞いでいた板は、あそこまで大きく割れていなかった。恐らくほんの少しだけ、小さな亀裂……もしくは釘か螺が通るくらいの穴が空いていた程度だったのだと思うわ。だとすると、入り口の扉を閉めたときに何が起こるのか……」
桜井は腕組みしながら考えるが、二秒で諦める。
「さっぱり、わからん」
『どうなるの? 循ちゃん』
九尾に促され茅野は答えを述べる。
「答えは、ピンホール現象よ」
「ぴんほーる……げんしょう……?」
訳が解らないといった様子で首を傾げる桜井。
『何か学校で習った気がするけど、何だっけ?』
九尾も詳しくはないようだった。茅野の解説が始まる。
「詳細な理屈は省くけれど、真っ暗な部屋の壁に、外からの光が通るほんの小さな穴を明けると、その反対側の壁に穴の外の景色が上下逆さまに投射されるの。それがピンホール現象よ」
「ふうん」
と、いかにも話を聞いてなさそうな相づちを打つ桜井。
『じゃあ、その逆さの幽霊というのは、ピンホール現象で投射された生簀の水面に佇む少女の霊だったっていう事なの?』
九尾の言葉に茅野はスマホのカメラを見ながら頷く。
「その通りよ。十五世紀頃、パースの正確な素描をおこなうために、このピンホール現象を利用して景色を壁に投射する装置があったの。それが“カメラオブスキュラ”」
「かめら、おぶすきゅら……どういう意味?」
その桜井の質問に土蔵を見渡して答える。
「フランス語で“暗い部屋”という意味よ。カメラの原型となった装置ね。写真というのはざっくりというと、そのピンホール現象で投射された風景を画像として記録した物の事なの。つまり、八年前に野添さんが目撃した逆さまの幽霊は、極めて原始的な心霊写真だと言えるわ」
「なるほど。野添さんは、幽霊そのものを目撃した訳じゃあなかったんだね」
「そういう事になるわね」と茅野。
「じゃあ、今もあの窓を小さな穴の空いた布か何かで塞げば、逆さまの幽霊が見れる……?」
桜井がわくわくと瞳を輝かせる。しかし、茅野は浮かない表情で首を振った。
「たぶん、無理ね。今日ぐらいの日差しだとピンホール現象はうまく起こらないわ。もっと日差しの強い真夏ならば、あるいは……」
『……それでも難しいと思うわ』
と、九尾が否定する。
『そもそも、心霊写真は、撮影する人の霊的な“相性”の他にも、様々な要素が影響しあって撮影されるものよ。霊能力を持っているわたしでも確実に撮れるという方法はないわ。きっと、その八年前に目撃された“逆さまの幽霊”は、よほどの偶然が重なった結果でしょうね』
「なあんだ……」
がっかりする桜井。茅野も残念そうに溜め息を吐いた。
「まあ、それなら、それで切り変えていきましょう」
「そだね」
『え。な、何をするつもり……?』
恐る恐る九尾が尋ねる。そもそも、こいつら、もう帰れよ……と、内心で思いながら。
すると、茅野はスマホのカメラに向かって悪戯っぽい表情で微笑む。
「生簀の底の死体を引きあげて、トシヤンソンの罪を暴く」
「糞ちゅーばーに慈悲は無し」
こうして、二人の目的は幽霊探しから死体探しに切り替わったのだった。
桜井と茅野は土蔵一階の壁にあったキーストッカーから生簀の排水用バルブの鍵を発見する。それを持って外に出た。
そして、解錠した排水用バルブのハンドルを桜井が回してみるも……。
「駄目ね……」
茅野が眉間にしわを寄せる。
バルブを回したあと、生簀の水面に大きな気泡が浮かびあがったが、水かさがまったく減らない。
どうやら詰まっているらしい。
「このまま、この家の生簀に死体が沈んでますって通報して、警察に任せる?」
桜井の提案に茅野は肩を竦める。
「それで信じて、警察がこの生簀をさらってくれればいいけど」
『無理でしょうね……』と画面の向こうで九尾も渋い表情をする。
そこで、桜井が問うた。
「そういえば、センセ」
『何? 梨沙ちゃん』
「センセって、警察に知り合いがいるんだよね? その人に頼むっていうのは?」
『ああ……』
九尾はしばらく考えてから首を横に振る。
『難しいでしょうね。やっぱり、明確な証拠となる死体がないと……』
彼女の知己である穂村一樹の部署は、怪異がらみの事件を専門にしてはいるが、はっきりとした証拠や、何らかの被害がないと動く事ができない。
おまけに……。
『わたしが言えば動いてはくれると思うけど……』
最近の彼は多忙を極めており、単純に頼みづらい上に、今は何かと行動が制限されるコロナ禍である。もし動いてくれたとしても時間が掛かるであろう事は間違いない。
そう二人に話すと……。
「そう。ならば、私たちがやるしかないわね」
「どーするの? この生簀の水を二人で汲み取る?」
桜井が、げんなりした顔で淀んだ水面に視線を向けた。
水を抜かなければ、死体を発見する事はできない。
しかし、生簀はそこそこな大きさがあり、深さも相当ありそうだった。その中に溜まっている水を抜くとなると、かなりの大仕事になるのは間違いない。
さしもの桜井も顔をしかめざるをえなかった。
だが、茅野は余裕の笑みを浮かべて肩をすくめる。
「いいえ。そんな事はする必要はないわ。トシヤンソンの母親に自白してもらいましょう。きっと、この事に関しても、絶対に知ってるはずよ」
「ああ、なるほど……」
ぽむ、と、両手を叩き合わせる桜井。
そして、茅野は極めて嗜虐的な笑みを浮かべる。
「あの胸糞動画の本歌取りといこうじゃないの」
「いいねえ」
桜井が無邪気に笑う。
『どうせ止めても無駄だろうから止めないけど……あ、あんまり、無茶はしないでね?』
九尾は戦々恐々としながら、二人に釘を刺すのだった。