【04】かんおけ
二〇二〇年五月二十七日、県営団地のリビングにて――。
「逆さまの……幽霊……?」
御堂静香は眉をひそめて、その言葉を口にした。すると、茅野循は重々しい表情で頷く。
「ええ。あの土蔵で目撃されたそうです。黒猫坂の家は、心霊スポットとして地元では有名らしいですよ」
初耳だった。
もちろん、いい気分はしない。しかし、そんなものは、でまかせであると、突っぱねる気にもなれなかった。
何かを忘れている……大切な事を……。
「今はYouTuberのトシヤンソンの生まれた家としても有名だけどね」
その桜井の言葉に苦笑する静香。
彼女は息子がそんな名前で活動していた事も知らなかった……いや、忘れていただけかもしれない。
「そのトシヤンソンというのが息子の事なのでしょうか?」
「そだよ」と桜井。そして茅野が言葉を続ける。
「今や息子さんは、話題の人ですからね。この団地の所在もネットで知りました」
「まあ……それで……」
静香は口元に手を当てる。
やはり、いい気分はしない。
知らないところで、自分や息子の個人情報が赤の他人に共有されている。
だから、インターネットは怖いのだ……と、静香はぞっとする。
「まるで、芸能人みたいなんですね。その……うちの息子って」
「まあ、そうですね」
茅野は素っ気なく言葉を返す。
「でも、喜ぶべきなのかしら……? それだけ、多くの人が息子の事を評価してくださっているっていう事なのよね……」
と、静香がまるで自分へと言い聞かせるように呟く。
すると、茅野は、桜井と何とも言えない表情で顔を見合わせる。
「えっと、何か……?」
そのリアクションに不審なものを感じて、静香は眉をひそめた。
すると、茅野が持っていたバッグのファスナーをおもむろに開く。
「それで、お見せしたいものがありまして……」
「はい?」
唐突な話題の転換に静香は目を丸くする。
茅野がバッグから取り出したものをテーブルに置く。
それは、大学ノートぐらいの大きさの平たい箱だった。
金属製で元はクッキーか何かの入れ物だったらしい。
その蓋の中央にはマジックで文字が書かれている。
“かんおけ”
その四文字を見た瞬間、静香の頭の中で、ぞわり……と、何かが蠢く。
「これを……どこで……」
桜井が菓子を食べる手を止めて、その質問に答える。
「息子さんの部屋の押し入れにあったよ」
「押し入れ……何で」
静香は二人に対して憤りを覚えた。
勝手に侵入した挙げ句、押し入れの中まで覗くなんて……。
唖然としていると、茅野がぺこりと頭をさげる。
「猫は狭い場所を好みますからね。不躾でしたが、押し入れの中も改めさせてもらいました。すいません」
「……すいません」と、桜井も頭をさげる。
そして、憤懣やる方ない様子の静香に構う事なく、茅野が質問を発した。
「この箱を見た事はありますか?」
静香はゆっくりと首を横に振る。
「知りません」
見た事はあった。
「き……きっと、あ、あなたたちのように、あの家に入り込んだ近所の子供が隠したんじゃないかしら?」
そうだ。蓋に記された文字は、幼い頃の寿康が書いたものだ……静香は思い出す。
しかし、口から吐いたのは否定の言葉であった。
「息子の……ものではないと思うわ……棺桶だなんて、恐ろしい」
会話が止まり、その隙間に陰鬱な雨音が流れ込む。
静香はティーカップを持って、口元へと運んだ。カタカタと指先が震え、紅茶が波打つ。
そんな、すっかりと血の気の失せた様子の彼女に向かって、茅野循は悪魔のように微笑む。
「中身を見れば、何かを思い出すかもしれません」
蓋をゆっくりと開けた――
二〇二〇年五月十九日、朝十一時頃。
通勤タイムとは少し時間帯をずらして、電車で県庁所在地を目指す。そこから更に乗り換えて白谷市を目指した。
その車中での事だった。
「……んで、幽霊が逆さまな事には何か意味があるのかな?」
桜井の提示した疑問を受けて、茅野はスマホに指を走らせる。
「天井から逆さまと聞いて、真っ先に思い出したのは、これね」
そう言って、スマホを掲げる。
すると、そこには奇妙な水墨画が表示されていた。
荒れ果てた和室の天井の穴から、汚ならしい醜女の上半身が突き出て、ぶらさがっている。
「何これ?」
桜井は眉をひそめて首を傾げる。
「鳥山石燕の書いた妖怪“天井さがり”よ」
「天井……さがり……そのまんまだね」
「ええ。そのものズバリ、天井から突然ぶらさがって人を驚かせるだけの妖怪らしいのだけれど……」
「サンドバッグにはちょうどよさそうだね」
桜井が、しゅっ、しゅっ……と、ワンツーを虚空に放った。
「で、この妖怪の正体って、何なのかな……天井にぶらさが死した人の霊?」
「何なのよ。その死因」
茅野が呆れて笑う。
そして、いつも通り解説を始める。
「この天井さがりは、一説によると、鳥山石燕の創作だと言われているわね。 昔“天井を見せる”という言い回しがあって、それが元ネタっていう話よ。“人を困らせる”という意味らしいんだけれど」
「ふうん……じゃあ、実際にはいないの?」
何故か若干がっかりした様子の桜井。
茅野はクスリと微笑み、右手の人差し指を立てる。
「でも、 江戸時代の怪談集“宿直草”の“甲州の辻堂に化け物のある事“に、山中のお堂の天井裏に化け物が住み着き、お堂に泊まった旅人を捕えて食らっていたという話が収録されているわ」
「お、そいつは殴っていいやつだね?」
「まあ物理が通用するタイプなら、構わないんじゃないかしら」
と、茅野は桜井の問いに答え、話を続ける。
「それから、こちらも甲州……つまり、今の山梨県の北巨摩郡に“天吊るし”という、天井から現れる子供のような姿をした妖怪の伝承が残っているらしいわ。こちらは特に人間に危害を加えたりはしないそうよ」
「それは、殴っちゃだめなやつっぽい……」
なぜかしょんぼりとする桜井だった。やはり子供は殴れないらしい。
「兎も角、昔の人は天井裏を“魔の住む異界”としていたの。きっと鼠の足音や家鳴りなんかから、天井裏の闇に何かが潜んでいるのだと想像したのでしょうね。元々、天井裏は人に見られてはいけない物を隠す場所としての役割もあったみたい。天井に関連した妖怪は、そうした場所への恐怖と妄想から生まれたのかもしれないわね」
「ふうん……」と、話を聞いていない風な返事をする桜井であった。
そこで、ふと何かを思い出した様子で膝を打った。
「そう言えば前に見た映画も天井裏に奥さんの死体を隠していたよね。あの幽霊が、あああああ……て、喉を鳴らすやつ」
茅野は右手の人差し指を横に振る。
「違うわ。あれは、あ″あ″あ″あ″あ″……よ」
「あああああ……?」
「違うわ……」
などと、幽霊の鳴き真似合戦が始まる。
無論、二人が車中の注目を集めていた事は言うまでもない。
こうして、二人は何事もなく最寄り駅へと到着した。