【00】初恋の思い出
二〇〇九年二月十四日だった。
晴雪の空が鉛色の夕闇に染まろうとしていた。
軒先から落ちる水滴と、シャーベット状に溶けた路上の雪を踏みしめる足音が陰鬱なリズムを奏でる。
吐き出す息は白く、赤いマフラーに埋もれた頬や鼻の頭は、悴んで朱に染まっている。
当時、中学二年生だった千村双葉は、学校からの帰り道、山間に位置する集落の中を歩いていた。
彼女の目的地は、この先にある黒猫坂にあった。
その袂に住んでいるクラスメイトの御堂寿康を訪ねようというのだ。
御堂はいわゆる問題児で、昨年の夏休み明けから学校に一度も来ていなかった。
虐めがあったとか、彼がクラスの中心グループと揉めていたとか、色々と噂は耳にしているが不登校となった直接的な原因はよく知らない。
変わり者で目立ちたがり屋。
そもそも以前から学校をサボりがちで授業中に奇声をあげたり、勝手に歩き回ったりなどの奇行は日常茶飯事だった。
文化祭や体育祭といった行事にも非協力的な態度で、常にクラスメイトや教師の頭を悩ませる種となった。
仲のいい友だちもおらず、彼はいつも独りきりだった。
普通なら絶対に関わりたくないタイプの人間である。
しかし、千村はある日、見てしまった。
彼が学校帰り、橋の下に捨てられていた仔猫を持ち去る姿を。そのときの優しげな微笑みを。
仔猫はどろどろに汚れて痩せ細り、顔も目脂と涎で酷い有り様だった。
しかし、彼は制服が汚れるのも厭わず、その仔猫をいとおしげに抱きかかえた。
このときの彼は普段の露悪的な様子とは違い、屈託のない純朴そうな微笑みを浮かべていた。
その光景は、ずっと千村の脳裏に焼きついて離れず、暖かい胸の高鳴りを彼女へともたらした。
これが一年前の秋口の事である。
それから間もなく、千村は自らが御堂に恋をしていると自覚した。彼女にとっての初恋である。
しかし、もともと、引っ込み事案で奥手の千村は、その想いを打ち明けるどころか、そもそも御堂と親しくなる事もなく、ときは流れて今にいたる。
四月からは中学三年生。
現状では持て余した恋心のお陰で受験に集中できそうにない。そして、来年は高校生である。
そうなってしまえば、唯一彼との接点であった学校という枠組みから出ていかなければならない。
しかし、千村は御堂のアドレスすら知らないし、当然ながらいきなり家を訪ねるような理由もない。
彼について知ってる事といえば、黒猫坂の袂の大きな土蔵のある家に住んでいるという事ぐらいであった。
クラスの親しい友人にそれとなく彼の連絡先を聞こうか迷ったが、シャイな彼女にはとてつもなくハードルが高かった。
もし、そんな事をすれば、自分が御堂に気があると知られてしまう……。
悩みに悩んだ末に、彼女は積極的に行動を起こす道を選んだ。
“ずっと、学校を休んでいるから心配になって、様子を見にきた”
そして折しもバレンタインである。
“ついでに調理実習でクラスの男子全員に義理チョコを作ったので、御堂くんにも受け取って欲しい”
もちろん、調理実習などはなく、本当は昨晩、丹精込めて作った本命チョコである。
奥手な彼女にとっては、ずいぶんと思いきった行動であった。
そんな訳で、この日、学校を終えた彼女は、その足で想い人の元へと向かう事にした。
黒猫坂は彼女の本来の帰路からは、ずいぶんと離れた場所にある。
幸いにも好天に恵まれてはいたが、この季節、豪雪地域の徒歩移動はやはり辛い。
それでも、千村は胸の奥に灯る彼への恋心を寄る辺にして歩み、ようやく辿り着く。
その狭いブロック塀に挟まれたカーブの向こう。直線の先に雪の帽子をかぶった木々の間を割って、登り坂が延びている。黒猫坂である。
その登り口の左手に、かの家はあった。
沿道の桂の生け垣。
門から左手に母屋とガレージがあり、正面奥にはくだんの土蔵があった。土蔵の隣には四角い生簀が見える。
千村は門前で息を整え、髪の毛を手で撫でて深呼吸を一つすると、敷地内に足を踏み入れた。そのまま母屋を目指す。
短いステップをあがり、波板で囲われたポーチの奥にある玄関の引き戸の前に立った。
“御堂”と記された表札を見て、間違いがない事を確認する。
それから、右側の壁のインターフォンを推した。
三回目で家の中から「はいはい……」と女性の声と共に慌ただしい音が聞こえる。
がらり、と砂を噛んだような音がして、戸が開いた。
「どちら様かしら?」
戸口の向こうから顔を覗かせたのは、三十代半ばに見える女性であった。寿康の母だ。
千村は下腹から込みあげる緊張をどうにか押さえつけながら一礼する。
「突然すいません。寿康くんのクラスメイトの千村双葉と申します」
「まあ。あの子の……」
彼の母は、ずいぶんと驚いた様子で口元に手を当てた。
そんな彼女の表情を上目使いで窺いながら千村は言葉を続ける。
「その……寿康くんは、今大丈夫ですか? ちょっと、話がしたくて……」
「あらあら。わざわざ、申し訳ないわね。ちょっと、待っててね……」
そう言って、彼の母親はパタパタと小走りで再び家の奥へと姿を消す。
そうして、薄暗い三和土でしばし立ち尽くしていると、正面に延びた廊下の左手の戸口から、ひょっこりと年老いた男が顔を覗かせる。
「おお……寿康のガールフレンドかい?」
その言葉を耳にした途端、千村の顔全体が、かっ、と熱を帯びる。しどろもどろになりながら「お、お邪魔しています……」と言って頭をさげた。
すると再び母親らしき女性が戻ってくる。
「トシちゃんに聞いたら、いいって」
その言葉を耳にした瞬間、緊張で凝り固まっていた千村の表情がふわりと溶け出す。
「……それじゃ、あがってちょうだい」
「はい!」
促され力強く頷いて、千村は靴を脱いだ。
床には、おびただしいゴミ屑や脱ぎっぱなしの衣類が散らばっていた。
その汚濁の海に浮かんだ人工島のごとき布団で胡座をかき、ちゃぶ台のノートパソコンに向かうのは二十五歳になった御堂寿康である。
彼はけっきょく、そのまま中学校へ通う事なく卒業し、県庁所在地のフリースクールへと入学した。そこで真面目に勉強へと打ち込んで大検を習得後、製菓工場に就職する。
その製菓工場は数年前に退職しており、現在はYouTuberとして活動していた。
今は新しい動画の編集作業をおこなっている最中である。
その作業が一段落しかけたとき、枕元に放りっぱなしだったスマホが着信を告げる電子音を奏でる。
舌打ちをして、御堂はスマホを手に取り画面を覗き込む。すると母からの電話だった。
彼の母親は二つ折りのガラケーを使っており、パソコンもほとんど扱えない。今どき珍しいアナログ人間だった。連絡手段はメールと電話のみである。
御堂は電話ボタンを押してスピーカーフォンにしたスマホをちゃぶ台の上に置いた。
すると、母の声が聞こえてくる。
『トシちゃん?』
「何だよ?」
『調子はどう? 元気にしている?』
その不安げな声を聞いて、御堂はうんざりと顔をしかめた。
「大丈夫だよ。そっちこそ、何ともない?」
『お母さんの事はいいんだよ……それより、そっちはコロナで大変じゃない? トシちゃんの事が心配で……ご飯は食べてる? お金は足りてる?』
もう何度となく繰り返してきたやり取りだった。
御堂は深々と溜め息を吐いて、これまた何度も繰り返してきた言葉を口にする。
「前にも言ったけど、大変どころか今がチャンスなんだよ。緊急事態宣言で、みんな家にいなければならないだろ?」
『そうねえ……』
「そうなると閑を潰すために、みんながインターネットで動画を観る。現に先月末から俺のチャンネル登録者数の増加ペースがあがっている」
『ああ、そうなの……』
と、相づちを打つも、御堂には母が何一つ理解していない事が透けて見えた。
彼女は動画どころかインターネットすらやらない。何度、説明しても理解しようとしない。
息子のやる事に基本的に興味がないのだ。
「兎も角、今も仕事中だから、大した用事がなかったら切るよ?」
『そうかい、ごめんねえ……邪魔したねえ……』
「それじゃあ、元気でね」
いそいそと、通話を終えて通話を終える。
そして、御堂は再びノートパソコンに向き合った。
……その背後で、赤いマフラーを首に巻いた少女がじっと彼の頭頂部を見おろしていた。
御堂はそれに気がついた様子もなく、作業のシメにかかった。