【12】明るい未来
再びショッピングセンター二階のフードコートにて。
「……嘘だ。そんな……」
鈴木要は双眸を血走らせ、青ざめた唇を戦慄かせた。
赤坂友利は妻の親友だったはずだ。少なくとも鈴木はそう認識していた。
生前の妻から何度も聞かされた。新歓コンパで無理やり酒を飲まされて酔い潰れた自分を赤坂が介抱してくれた話を。
何でも赤坂は妻を介抱したせいで終電を逃し、一駅分も歩いて帰らなければならなくなったのだという。
その事をあとから人づてに聞かされ、妻は己の不覚を恥じると共に、赤坂の自己犠牲にいたく感動したらしい。
更に妻はよくこんな事を言っていた。
『トモリンは、とっても優しい子だけど、ちょっと真面目で考え過ぎるところがあるから、私が明るくて能天気にしていればバランスがいいでしょ?』
少なくとも、赤坂友利は妻にとってかけ替えのない人間であった。
『トモリンはカナメくんの次に大切な人なんだよ』
……こうも言っていた。
しかし、それが全部、妻の勘違いだったとしたら。
今まで目にしてきた現実が悲鳴をあげながら歪む。
鈴木は人目もはばからず叫んだ。
「嘘だ!!」
フードコート内が一瞬静まり返る。
鈴木にいくつもの視線が集まる。
荒い息を吐いて肩を震わせていると、茅野が極めて冷静な声音で問い質す。
「もしかすると、この藁人形を打った相手に、貴方は心当たりがあるのかしら?」
沈黙。
しかし、彼の表情はその質問の答えを雄弁に物語っていた。
構わず茅野は言葉を続ける。
「もしも、そうならば、貴方は何もしなくていい」
「何も……しなくて……いい?」
視線をあげ、首を傾げる鈴木。
そんな彼に向かって、茅野は幼子に対するような優しい声音で言い聞かせる。
「……丑の刻参りを行った事を誰かに知られてしまえば、その呪いは跳ね返ってくる」
それは、いつか誰かに言い放った言葉と同じだった。
「何の代償もなしに、呪いの力を行使する事なんてできない。……だから、必ず罰がくだる。貴方の妻を呪った人殺しに……数ヵ月後か、数年後か、明日か、今日か、それは、私には解らないけれど」
鈴木は再びうつむき、ぽつりと言葉を発した。
「偶然……偶然という事はないのか? その藁人形と妻が死んだ事に因果関係はない。偶然……偶然だよ……」
茅野は残念そうに首を横に振り、断言する。
「この神社の呪いは本物よ。私はそれをよく知っている」
その確信めいた言葉が放たれた瞬間、鈴木の顔がくしゃりと悲しみに歪んだ。
「ああ……糞……」
藁人形の呪いだなんて、何の根拠もない。
そう思い込もうとしても、鈴木には無理だった。
この少女は、少なくとも嘘や冗談を言っている訳ではない。
それが解ってしまった。
鈴木は項垂れたまま何も言えなかった。
茅野は桜井と目配せをして、椅子から腰を浮かせた。
「それでは、私たちはこの辺で、失礼させてもらうわ。……行きましょう。梨沙さん」
「うん……」
桜井も茅野の後に続く。
二人は鈴木に背を向けて、フードコートから立ち去る。
そして、広々とした吹き抜けを長いエスカレーターで降った。
眼下の一階ホールでは、マスクをつけた買い物客たちが縦横に行き交っていた。
その途中、何とも言えない表情で桜井が呟く。
「嫌な事件だったね……」
「どこぞのフリーのカメラマンみたいな事を言うのはやめて頂戴」
茅野が苦笑混じりに突っ込むと、桜井は眉尻をさげてお腹をさする。
「嫌な事件過ぎて、カロリーを使ったよ」
「いい事件でも、梨沙さんのお腹は空いたと思うけれど、私も何か食べたいわ。久々にどこかへ寄って行きましょう」
「わーい! チャーシュー麺」
諸手をあげて喜ぶ桜井。
エスカレーターを降りて一階ホールを横切り、玄関口の自動ドアを潜る。
……その直後だった。
吹き抜けの天井に吊るされていた巨大なシャンデリアを吊るす何本かの鎖。そのうちの一本が、鈍い金属音と共に外れた――。
赤坂友利は一階ホールを横切り、食料品売り場へと向かった。
買い物籠を腕に提げて考える。
メインは鶏のコンフィでいいとしても、その他はどうするか……。
五月の旬はアスパラガスとトマト……サラダとスープに使おう。籠の中に入れる。
バゲットと赤ワイン、クリームチーズも……次々と籠の中に入れる。
こうしていると、新婚の新妻のような気分になった。思わず笑みがこぼれる。
「うふふ……」
赤坂は強く信じていた。
きっと、自分は幸せになれる。
あの死んでしまった鈴木美里よりもずっと……。
鈴木要もきっと、あの女の事などすぐに忘れて、自分の事を好きになってくれる。
今は忌々しい病禍によって、すべてが停滞してはいるが、きっと未来は明るい。
そう確信していた。
赤坂は将来の自分を夢想しながら、弾む足取りでレジへと向かった。
……そのとき、一階ホールではシャンデリアの鎖がもう一本外れた。
行き交う人々の中で、その惨劇の予兆に気がついた者は誰もいなかった――。
鈴木要はゆっくりと顔をあげた。
あの奇妙な二人の少女が立ち去ってからずいぶんと時間が経っていた。
疲れて頭が働かなかった。帰って眠りたかった。
鈴木はフラフラと椅子から腰を浮かせた。
フードコートを出るとエスカレーターに乗り吹き抜けを降る。
何気なく手すりの向こう側を見おろした。
すると、一階ホールを食料品売り場の方から出口へと横切る赤坂友利の姿が目に入った。
夕食の買い物だろうか……いずれにせよ、何かの脚本染みた偶然の出会いに鈴木の背筋は震える。
……と、同時に脳裏にあの茅野循という少女の声が甦る。
……貴方は何もしなくていい。
本当にそうなのだろうか。
せめて、彼女に直接問い質して向き合うべきではないのだろうか。
もしかしたら、勘違いという事もある。
あの藁人形を打ったのは彼女じゃないかもしれない。
エスカレーターを降りた。
ホールには人気は少なく、赤坂はすでに自動ドアの前にいた。
鈴木は小走りで駆けながら、彼女の後を追った。
自動ドアに映り込んだ彼の姿に、赤坂が気がつき振り向いた。
「要さん」
赤坂は仔犬の尻尾のように右手を振り、早足で鈴木の方へと引き返す。
その瞬間だった。
鈴木の数メートル前方。
天井のシャンデリアが落下して笑顔の赤坂を押し潰す。
凄まじい地響きと、散乱する硝子片。舞い散る鮮血。
一瞬の静寂。
誰かの悲鳴が轟いた。辺りが騒然とし出す。
「そんな……」
鈴木要はその場で両膝を突いて崩れ落ちた。
シャンデリアの下敷きになった肉片より溢れ出た流血が、床に散らばった硝子片を赤く濡らした――。
「あ……あああ……」
重たいシャンデリアの輪が、ちょうど喉を押し潰そうとしていた。
赤坂友利は天井に向かって手を伸ばした。
あの女がいた。
天井付近を漂い見おろしている。
憐れみに満ちた表情で見おろしている。
まるで、飼い主に見放された野良犬に向けるかのような悲しげな瞳で……。
許せない……そんなところから見おろすな……そんな目で見るな……私は幸せだ……お前より幸せになるんだ……。
その叫びは声にならない。泡立つ血潮が口腔よりあふれでるばかりであった。
そうしているうちに、彼女は自ずと理解する。
つい秒前まで思い描いていた理想の未来が、たったの一瞬で潰えてしまった事を。
赤坂友利は失意に溺れたまま、息絶えた。
後に事故現場を訪れた特別救助隊員はシャンデリアの下敷きになった赤坂友利の死に顔を見て言葉を失った。
なぜなら彼女が笑っていたからだ。
更に割れた硝子片により、目の下と口の両端に奇妙な裂傷が見られた。
凄惨なその場に似つかわしくない滑稽さ。
それはまるで、ピエロのメイクのようだったのだという。