【09】幽霊狩り
二〇二〇年五月十六日の深夜だった。
戸田宅の隣の空き家にて。
密やかな囁き。
男女の忍び笑い。
硝子障子が開く音がして、掃き出し窓にかかったカーテンに明かりが浮かんだ。
その明かりは二人分の足音と共に裏口の方へと移動する。
やがて、その扉が開かれた直後であった。
シャッター音と共にフラッシュが瞬き、夜闇を照らしあげた。
同時に暗かった戸田宅の窓に明かりが灯る。
すると、空き家の裏口から外に出たばかりの男女が眩しそうに顔をしかめた。
男は薄い茶髪……あの楪がスーパーで出会った霊感少年である。
一方の女の人相は、楪の部屋を覗いていた幽霊そのものであった。歳の頃は二十代半ばといったところか。
その表情には生きた人間らしい焦りの色が浮かんでおり、とても怨念をいだいて死んだ者のなれの果てには思えなかった。
そして、そんな二人を悪魔のような笑みを浮かべながら睥睨してみせるのは……。
「ふふっ、間抜け面をいただいたわ」
竹垣の向こうの戸田家の裏庭で、デジタル一眼カメラを構える茅野循であった。
「不味い……逃げろ!」
男が声をあげる。
「待ちなさい!」と茅野の叫び声が響き渡るが、聞く耳を持つはずもない。
二人は慌てて表へと回り、門の外へ出ようとするが……。
「そうはさせない」
と、両腕を広げ、まるで戦闘体勢の熊のようなポーズで門を塞いだのは桜井梨沙である。
男と女は急停止して立ち止まる。
男の方が桜井の頭の上から爪先まで視線を這わせ、組みやすい相手だと判断したのだろう。
「どけよ! 畜生!」
男が桜井に突っ込む。
その体当たりをカタルーニャのマタドールもかくやといった身のこなしでかわし、桜井は男の右足を引っ掛けた。
「うわっ!」
あっさりと男は転倒した。
そこへ戸田家の門の方から茅野がやってくる。
「梨沙さん、これを使って頂戴」
スタンロッドを放り投げた。
桜井は右手を伸ばしスタンロッドの柄を空中で掴み取る。
刹那、ぶん……と風切り音を立てながら振り、四肢を突いて起きあがろうとしていた男の頬にスタンロッドの先端を寸止めした。
スイッチを入れて青白い光を顔の横で瞬かせる。
「動かないで! ビリっといくよ……」
この局面においてのスタンロッドは、相手方の抵抗する意思を削ぎ、抑止力となるには充分な武器であった。
「くっそ!」
男は悔しそうに歯噛みして、アスファルトを平手で叩いた。
女の方も観念した様子で、へなへなとその場に腰を落とした。
「もう終わりよ……終わりだわ……何もかも……」
茅野が男を見おろしながら、その後頭部に言葉を浴びせ掛ける。
「貴方と、そこの女がどういった知り合いかは知らないけど、恋人同士……それも、不倫関係ね?」
男は否定も肯定もせずに憎悪の籠った眼差しで茅野を見あげる。
「普段は……そうね。逢瀬の場所は、そこにいる女の家だったんじゃないかしら? 旦那が仕事にいってる時間帯に」
女は無言で夜空を見あげ、すべてを諦めた様子で深々と溜め息を吐いた。
「でも、このコロナ禍になって緊急事態宣言が発令されると、旦那は四六時中、家にいるようになり、家を密会場所に使えなくなった。更にこんなご時世ではおいそれと外に出る口実も作れない。そんな事情で貴方たちは一計を案じ、この空き家を密会場所に使う事にした」
「あー」と納得した様子で頷く桜井。
「あのエアマットはそういう……」
茅野が頷く。
「そうよ。きっと、いちいち持ち運ぶのが面倒になって、あの押し入れに入れっぱなしにしていたのね」
「でもさあ……」
と、桜井が疑問を提示する。
「あの空き家の鍵は? この二人も鍵開けスキル持ち?」
「違うわ。きっと、この二人はあの裏口の扉の合鍵を作ったのよ」
「作った?」
「そう。カリウムでね」
「ああ。あのドアノブについてた白い粕か……」
「そうよ。カリウムは融点が低く、人の体温程度で簡単に溶けて、固まればけっこう硬くなる。おまけにホームセンターなんかで簡単に買える。カリウムを使った型取りは空き巣の常套手段の一つね。YouTubeなんかでも、やり方を紹介する動画がアップされているわ」
「ふうん……」と、話を聞いていない風の返事をする桜井。
すると、遠くから微かに聞こえるサイレンの音が近づいてくる。
戸田の呼んだパトカーだろう。因みに戸田一家には事情を説明済みで全面的な協力体勢を仰いでいる。
「……それで、二人は深夜に家を抜け出して、この家で逢瀬を重ねていたのだけれど、それを運悪く目撃されてしまった。楪さんにね」
「ああ……それで」
「そう。普段なら、楪さんは眠っていて窓の外から隣の家を覗こうだなんて、思いもしなかった。しかし、その日は違った」
「心霊特番だね?」
「その通りよ。心霊特番を見て眠れなくなった楪さん……そして、その番組の再現ドラマで窓から部屋を覗く幽霊の話をやっていた。それが切っ掛けとなり、楪さんは勇気を出して、自分の部屋の窓の外に幽霊がいない事を確かめようとした」
「いたいけな少女の勇気が二人の浮気を暴いちゃった訳か……」
パトカーのサイレンの音は随分と近づいている。
それは二人の男女にとって、破滅をもたらす怪物の羽音だった。
女が両手で顔を覆い啜り泣き始める。しかし、男は悔しさに肩を震わせ、歯を軋らせる事しかできない。
茅野はどこ吹く風といった様子で話を続けた。
「……そうして、見られた事を悟った貴方たちは、幽霊の振りをして、彼女を脅す事にした」
「確かに隣の家に不審者が入り込んでるって大人に告げ口されるより、幽霊がいるって言われた方がいいもんね」
「そうよ。誰も子供の言う事だから信じない。そして、その目論み通りになりかけた」
パトカーが路地の向こうからやってくる。
その回転灯の明かりを見るなり、茅野はうっそりと溜め息を吐いた。
「さて、これから、警察に事情を説明するという面倒臭い後片づけが待っているわ」
「だねえ。……でも、久々にエキサイティングだったよ」
そう言って、桜井は満足げに微笑んだ。
その捕り物の一部始終を二階から見物していた戸田楪は、窓硝子に張りつきながら……。
「……二人とも、かっこいい」
と、キラキラした瞳で呟いた。