【03】基礎
「幽霊が出るのは、娘さんの部屋ですか?」
その茅野の問いに戸田は首を振り、
『いや、部屋の中を覗きにくるそうだ。幽霊は隣の家にいるらしい』
『今度の相手は、ロリコン変態の霊か……』
画面に映る桜井がワンツーをリズムよく繰り出し始める。
それを横目に茅野は戸田に訊いた。
「けっきょく、先生は私たちにどうしろと……?」
『ああ。だから、娘に幽霊なんかいないって言い聞かせて、安心させてやって欲しいんだ』
『は?』
「はい?」
桜井と茅野は同時に声をあげて、目を丸くする。
『お前らが、そういう事件を科学的に解明している事は噂で知っている』
どうやら、戸田は少し勘違いしているようだった。
桜井と茅野は何とも言えない表情で、カメラ越しに目線を合わせるが、戸田は気にした様子を見せずに話を続ける。
『娘は怖がりの癖に、そういうお化けだとか幽霊だとか、そういったものが昔から好きでな。俺たちの寝室にきた夜も、寝る前に心霊特番のドラマを見ていて……』
何でも、昔から怖い本やドラマを好んで見る割りには、夜中に怖がりだして寝つけなくなる……という事がよくあったらしい。
その都度、戸田は“幽霊なんかいない”と彼女に言い聞かせてきたのだが……。
『……今回は聞いてくれないんだよ。かたくなに“幽霊を見た”って言って譲らない。それで最近、ちょっと娘との仲がギクシャクしていて……』
しょんぼりと肩を落とす戸田。
因みに娘は現在、母の布団で一緒に寝ているらしい。
すると、そこで桜井が呆れた様子で溜め息を一つ吐く。
『センセさぁ、もっと、ちゃんと詳しく娘さんの話を聞いてあげたの? 頭ごなしに幽霊なんかいないって決めつけて強引に言い聞かせようとしたんじゃないの?』
『そ、それは……』と、狼狽する戸田。
どうやら図星らしい。
『で、でも、幽霊はおらんだろ。そんな非科学的なもんは……』
『いやいやいや、センセ、この世には……』
桜井が、そう言い掛けたところで茅野は声をあげた。
「待って、梨沙さん」
『待つ!』
と言って、素直に口をつぐむ桜井。
そして、極めて理知的な声音で戸田に語り始める。
「人間というのは自分の目で見た物、実際に体験した事しか信じません。その認識を打ち破るには、それ相応の理屈が必要なのです」
『まあ、確かにそうだが、どうせ怖い夢でも見たのだろう』
その言い種に茅野も溜め息を吐く。
「先生も井上円了博士の名前はご存じですよね?」
『ああ……。確か、こっくりさんの原理を科学的に解き明かした哲学者だ』
戸田の言葉に茅野は頷く。
「彼は、怪異や超常現象を、“虚怪”と“実怪”に分類しました。更に、“虚怪”を“誤怪”と“偽怪”に。“実怪”を“仮怪”と“真怪”に分けたのです」
『かい、かい、かい……いっぱいあってよく解らないよ』
頭の上にハテナが飛び回った様子の桜井。
「まって、梨沙さん。今から一つずつ説明するわ」
茅野は苦笑しながら右手の人差し指を立てる。
「まず“虚怪” これは、人が産み出した怪異のグループね。その中で勘違いや見間違いなど、そういった錯誤や思い込みが“誤怪”。インチキ、ぺてん、トリック、心霊詐欺など人が意図的に怪異を装ったものが“偽怪”よ」
『あー、天井裏のチョウセンイタチを河童と勘違いしたのが、まさに“誤怪”だね。それで、呪われた井戸のファニーゲームが“偽怪”か』
と、桜井は過去に自分たちが関わった案件を思い出しながら頷く。
戸田は当然ながら何の事かは解らないが、それでも二人が相当な場数を踏んでいるらしい事を悟り、黙って話を聞く事にしたらしい。
茅野の話は更に続く。
「そして、次は“実怪”。こちらは怪異の原因が人間の意識以外にあるグループよ。その中で“仮怪”は自然現象……鬼火や狐火などの物理現象、狐憑きなどの憑依に見える精神疾患もこれに入るわ。そして“真怪”は本物の怪異の事ね」
『“仮怪”は、クリスタルパレスの死の部屋や、弁天沼のガスが吹き出るやつ、文化依存型症候群もそうか。それで“真怪”はいつものやつ……っと』
『いつもの……やつ?』
戸田が怪訝そうに首を傾げたが、茅野は無視して話を進める。
「まず自分の尺度で頭ごなしに言い聞かせようとするより、娘さんの体験した怪異を“誤怪”“偽怪”“仮怪”“真怪”のどれに当てはまるのかを突き止めるのが先です。そのうえで、彼女が見たものは何だったのかを論理的に説明し幽霊ではなかったのだと理解を促す。これはゴーストハントの基礎ですよ。……ねえ、梨沙さん」
桜井はたどたどしく『お、おう。き、基礎だよね』と答えた。
一方の戸田は、ずいぶんと感心した様子で深々と頷き……。
『かなり本格的なのだな』
「それは、当然」と茅野。
その言葉のあとに桜井がドヤ顔で言い放つ。
『あたしたちは、心霊探索に命をかけているからね』
これが文字通りの意味である事を知らない戸田は、安堵の笑みを浮かべた。
『やはり、お前たちに相談して間違いはなかったよ』
「……じゃあ、私たちのやり方を理解したところで、さっそく娘さんにお話を伺いたいのですが」
『ああ、解った。今、近くのスーパーに妻と買い物へ行っているところだ。もうすぐで帰ってくるはずだよ』
桜井と茅野は、幽霊よりこの人の奥さんと娘さんの方がレアだよな……と思ったが、口には出さなかった。
戸田美月は、買い物袋を持った反対の手で、娘の楪の手を握り帰路を歩く。
気分転換と運動をかねて、娘と共に徒歩十五分のスーパーへと買い物へ行くのは日課となっていた。
古い家々が建ち並ぶ住宅街の細い路地を抜けると、左の沿道に柘の生け垣に囲まれた公園が見えてくる。
この生け垣に沿った道を挟んで、反対側に建ち並ぶ家の三軒目が戸田家である。
その門前まで、もう数メートルという所だった。
楪の小さな手に、ぎゅっと力が入った。
美月は娘の顔を見た。
そのうつむいた顔の向こう側には、戸田家の隣にある空き家があった。
二年前は若い夫婦が暮らしていた。新婚でとても幸せそうだった。
その奥さんの方と、美月は何度かお茶をした事があった。よく喋り、いつも手作りの美味しいクッキーやマドレーヌを持ってきてくれた。
旦那の方も爽やかで礼儀正しく、端から見ても幸せそうな二人であった。
しかし、彼女たちが越してきてからおよそ四ヶ月後に、突然その夫婦は引っ越していった。
理由は解らない。挨拶もなかった。そして、近頃、娘がこんな事を言い始めた。
“隣の家から幽霊が部屋を覗きにくる”
まさか、あの鈴木夫妻も娘と同じモノを見たのでは……。
一瞬だけあらぬ想像が脳裏に浮かぶが、すぐに思い直す。
きっと、コロナ禍によって、生活が一変してしまったストレスが原因だろう。だから、楪はあんな事を……。
美月は娘の手を引いて、そそくさと隣の家の前を通り過ぎ、自宅の門を通り抜けた。
そして、足早に玄関ポーチのステップを駆けあがった。