【02】活動再開
その部屋は闇と静寂の中に沈み込んでいた。
カーテン、絨毯、クッション、寝具……ファンシーなパステルカラーを基調とした調度品、戸棚の上に並ぶ動物のぬいぐるみたち。
シックな学習机の隣に置かれたラックには、ずっと使われていないランドセルがしまわれたままになっている。
そして、部屋の入り口から右手にある窓際のベッドで、パジャマ姿の戸田楪は眠れぬ夜を過ごしていた。
原因は寝る前に見ていた心霊再現ドラマの特番であった。
中でもホテルの窓越しに部屋を覗く女の幽霊の話が忘れられない。
その部屋は五階にあり、窓の外には足場はない。
それにも関わらず、硝子の向こうから青ざめた表情の女が凄まじい形相で覗いている。
けっきょく夢か現か解らぬまま、朝を迎えたドラマの主人公は、昔そのホテルで飛び降り自殺があった事をボーイから聞かされる。
他愛もないありがちな怪談話であったが、再現ドラマの完成度の高さもあいまって、今年で小学四年になる楪は相当な恐怖を覚えた。
今も彼女はベッドの右横にある窓の外が気になって仕方がなかった。
淡いピンクのカーテンに閉ざされたその向こうには、裏庭へと続く砂利敷きの狭いスペースがあり、隣の家との間を遮る竹垣が過っている。
因みに、その隣の家は去年の夏頃から空き家となっており、今は誰も住んでいない。
そう言えば……と、楪は嫌な事を思い出す。
くだんの心霊特番で、こんな話もあった。
住む人が居着かず、ずっと空き家のままの借家。幽霊の出る家……。
楪はぎゅっと目を瞑ると、枕の上で頭を振り乱した。
しかし、彼女は次の瞬間、意を決した様子で目を見開くと上半身を起こす。
彼女は思った。解らないから怖いのだと。
カーテンをはね除けて、幽霊なんかいない事を証明してしまえばいい……。
楪は深呼吸を一つ。そして唾を飲み込み、ささくれたように渇いた喉を湿らせた。
そして、カーテンを両手で掴み一気に開いた。
二〇二〇年五月十四日、全国三十九県の新型コロナウィルス対策による緊急事態宣言が解除された。
これにより、二十一日から藤見女子高校でも分散登校が開始される予定となった。
ようやく、止まっていた時間が、ゆっくりとではあるが未来へと進み出したのだ。
しかし、それと同時にコロナ禍によって眠りに落ちていた奴らも、徐々に動きだそうとしていた。
昼さがり、茅野邸のリビングにて。
座卓の上でノートパソコンを起動させ、ヘッドセットを被り、ウェブカメラに向き合う茅野循。
そして、そのパソコンは、お馴染みとなったビデオ会議アプリへと繋がれていた。
ディスプレイに映るのは、茅野本人を除いて二人。
彼女の相棒である桜井梨沙と、もう一人はどこからどう見ても小汚ないおっさんの戸田純平。オカ研顧問にして藤見女子きっての不人気教師その人である。
彼もまた自宅のリビングにいるらしく、背後にはソファーの背もたれがあり、更にその奥には掃き出し窓が見えた。
その硝子越しの庭先には、鈴蘭や 雛罌粟などが咲き誇るフラワースタンドが置かれていた。
『いやあ、申し訳ないな。突然……』
戸田から桜井、茅野の元にメッセージが届いたのが昨日の事だった。
何でも“彼女たちの得意分野”に関しての相談があるとの事らしい。
心霊案件ならば大歓迎であるが、桜井と茅野は疑問に思った。
何故なら戸田は物理教師らしく、心霊とか超常現象について否定的なスタンスを取っていたはずだった。
その彼が自分たちに心霊相談などを持ちかけるはずがないと、二人は訝しんだ。
しかし、それならそれで逆に面白そうであると興味を持つのがこの二人の性格である。
桜井と茅野は戸田の申し出を快諾し、今にいたるという訳だった。
「……それで、先生。相談というのはいったい」
茅野が話を切り出すと、戸田は照れ臭そうに口を開く。
『実は、俺の娘の事なんだが……』
『ああ。あの去年の文化祭で、噂になった子だよね?』
桜井が声をあげる。
それは昨年の文化祭だった。戸田は自らの娘を学校へと連れてきた。
そのとき、一緒にいる二人を見た生徒たちが“戸田先生が女子小学生を校内で連れ去ろうとしていた”と勘違いし、それが噂になってしまった。
けっきょく“迷子の子供の相手をしていた”という事で落ち着いたのではあるが……。
因みに藤見女子の生徒で、彼が既婚者で一子の父親である事を信じている者は誰もいない。
本人の口から聞かされて知っている桜井と茅野ですら半信半疑である。
その噂を思い出したのか、戸田は遠い目で苦笑しながら本題を切り出す。
『……まあ、娘が最近、俺と嫁の寝室にきて、怖いから一緒に寝たいと言い出したんだ』
『娘さんって、何歳?』と桜井。
『九歳だ。現在、小学四年生だ』
「それくらいの歳の子なら特におかしい事はないと思いますけど。何が問題なんです?」
茅野は眉をひそめる。すると画面の向こうの戸田はパタパタと手を振った。
『いや、うちの娘はしっかりしているからな。小学一年のときから独りでちゃんと寝ていたぞ。それが突然俺らと一緒に寝たいと言い出したんだ』
『それって、いつの話?』
その桜井の質問に視線を上にあげて考え込む戸田。
『うーん。確か先月の終わりだったな……娘が寝室にやってきたのは』
「それで、先生は娘さんに理由を聞いたんですか? 何で急に一緒に寝たいだなんて言い出したのか」
『もちろんさ……』
と、戸田は言ったものの、その先の言葉が出てこないようだった。
『どったの? センセ』
桜井が促すと、戸田は渋々といった様子で口を開いた。
『実は、その、娘が、夜になると幽霊が出るって言うんだ』
桜井と茅野は画面越しに顔を見合わせた。
そのお互いの表情には、まるで草むらから獲物の動向を窺う狩人のような微笑みが浮かんでいた。