【01】あの家
コロナ禍による自粛期間となったのを切っかけに、妻の遺品を整理していたら日が暮れていた。
鈴木要の手には一枚の年賀はがきがあった。
手書きの宛名書き。かなり個性的な筆跡だったが、温かみと思いやりを感じた。
しかし、その宛名に書いてあるのは、もう字面も見たくない、思い出すのも辛い、死んだ妻の名前が記してあった。
彼女が死んで以来、一度も口にしていない、呼ぶ事のなくなった名前……。
その妻宛に、彼女の友人から送られてきた年賀はがきであった。
裏返すと独身時代の自分と妻、たくさんの友人たちでハロウィンパーティをしたときに撮影した写真がプリントされていた。
妻は酷い格好をしていた。
赤い豚鼻、大きく裂けた口、ピエロのような格好。何とも滑稽でユーモラスだ。
前夜に罰ゲームを賭けたカードゲームで負けた妻が、とんでもない仮装をさせられる事になった。
この格好を妻は嫌がっていたが、あえてその写真を年賀はがきに使ったものらしい。
友人からの愛あるいじりだと、年賀はがきを裏返した妻は笑っていた。
まだ楽しかった頃の記憶……。
鈴木はそっと目をそらし、そのはがきをシュレッダーにかけた。
震動と共に、刃の隙間に飲み込まれてゆくはがきを見ながら、彼は思い出す――
あの家から逃げ出すように、今住んでいる藤見市のアパートに越してきたのは、二〇一八年の七月下旬だった。
それから、およそ五ヶ月後。
妻は交通事故で帰らぬ人となった。
この頃の妻は原因不明の耳鳴りに悩まされていた。
病院にいっても、けっきょくいくつかの薬を処方されただけで症状はよくならなかった。
ストレスが原因ではないか……と、医師は言ったが、思い当たる節はなかった。
なぜなら、贔屓目抜きに、妻はいつも楽しそうだったからだ。しかし、その一方で、もしかして彼女は無理をしているのでは……という疑念もわき起こった。
昔からそうだった。
“よい彼女”であろう……“よい妻”であろう……そんな見栄を張る事に腐心するところがあった。
思い切って問い質してみたら、喧嘩になった。彼女と恋人になって以来、初めての事だった。
それから鈴木も妻と共に次第に疲れて病んでゆき、鬱々としていった。
そのうち、どういう切っかけだったかは覚えていないが、鈴木は霊能者に助けを求める事にした。
もう、それぐらいしか思い浮かばないほどに、彼らは追い詰められていたのだった。
鈴木夫妻が当時暮らしていた家は、藤見市の北西にある牛頭町にあった。
住宅街の外れにある公園の向かいの三軒並んだ家の真ん中。そこが二人の愛の巣だった。
町営の賃貸で4LDKの一軒家である。
Iターンなどで地方に移り住む若い夫婦を呼び込む事を目的としており、家賃の方は恐ろしく安い。
入居にあたっては、それなりの条件や誓約もあるが、何かと物入りの若い新婚夫婦にとってはありがたかった。
人が住まなくなった空き家をリノベーションした中古物件だが、見た目は新築とそう変わらず、庭先も広い。
因みに鈴木たちの借りていた家の両隣も、同じような町営の賃貸である。
その家のリビングで、七月の始めの事だった。
「この家が原因ですね。何か過去にあったようです。その因縁が奥さんを苦しめているのでしょうな」
そう語るのは、黒い着流し姿の男だった。
塚本神山という名前の霊能者である。
応接の座卓を挟んで、妻と共に塚本と向かい合う鈴木は目を見開く。
「事故物件という事ですか!? この家が……」
「左様」
鷹揚に頷く塚本。
鈴木はリビングを見渡した。
あの引っ越していた当初は満ちあふれていた日溜まりのような空気は、見る影もなく消えていた。
家具や部屋の隅の床には埃がうっすらと積もり、寒々しく薄暗い。隣で黙り込んだまま、陰気な表情でうつむく妻と同じように……。
「……でも、ここを借りるとき、そんな事は言われませんでしたが……」
その鈴木の言葉を耳にした塚本は、ふっ、と笑ってティーカップに口をつけた。
「それは、そうでしょう。そんな事を言われたら、あなた方は、この家を借りましたか?」
鈴木は無言で首を振る。
すると再び塚本は、はっ、と鼻を鳴らした。
「確かにそうした事が過去にあった場合、その物件の賃主には、それを入居者に告知しなければならない義務があります。……ですが、そんなものは、どうとでもなる」
「どうとでも……なる……?」
「そうです。そもそも、そうした事故物件の定義自体が曖昧で、賃主の裁量に任されている部分が大きいのです。例えば、そうした心理的瑕疵に当たる出来事があったときから、新しい入居者を一人挟めば次の入居者には、その事を告げない場合が多いらしいのです。そういった慣例が不動産業界には、あるそうで」
「そんな……」
鈴木は唖然とする。
「だから、わざわざ、心理的瑕疵に相当する人死にが出たあとに、書類上は誰かがその家に暮らしていた事にして“事故物件ロンダリング”をする不動産屋なんかも、あるとか、ないとか……」
塚本が肩を竦めて笑った。しかし、鈴木夫妻にとってはいっさい笑えない話だった。
「恐らく、この物件もその類いでしょうなあ……怨念が染みついている」
……などと、いって、天井を見渡す塚本。
そして、再び鈴木夫妻に目線を戻し、
「ですが、大丈夫です。まず、この家から引っ越した方がよろしいでしょう。そうすれば、奥さんは因果から解き放たれ、耳鳴りの方も止むはずですよ」
と、塚本が言い終わった直後であった。
屋根の上に止まっていた鴉が、ぎゃあ……と鳴いて、羽ばたきの音を立てた。
その二週間後だった。
鈴木夫妻は、わずか四ヶ月程度でこの家をあとにした。
しかし、事態が好転する事はまったくなかった。
鈴木要が妻の遺品の入った段ボールを整理していると、近くの座卓の上にあげてあったスマホが震える。
見れば赤坂友利からメッセージが届いていた。
赤坂は鈴木の今の交際相手だった。あの年賀はがきの送り主が彼女である。
妻の死後、駄目になりかけていた鈴木に対して親身になってくれたのが、彼女であった。
彼女は悲しみにくれる彼の精神的な支えとなり献身的に尽くした。
鈴木も次第にそんな赤坂に依存するようになり、今年の一月の終わりに彼女の方から思いを打ち明けられ、交際へと発展した。
最愛の妻が死んでから一年と少し。
心の傷はそんな程度の時間では癒える訳がないし、妻に未練があった。
赤坂への気持ちは、単なる感謝と、尽くしてくれる彼女に報いなければならないという義務感でしかなかった。
正直にそう告げると、赤坂は涙ながらにこう言った。
「まだ彼女の事が好きで構わないから、ほんの気晴らしでいいから、私の思いを受けとめてください」
考えた末に……いや、考える事を放棄しただけなのかもしれないが、鈴木は彼女の言葉通りにした。
そんな赤坂から送られてきたメッセージは、たわいのない雑談だった。適当に返信をしてスマホをポケットに入れた。
そして鈴木はふと思い立ち、車の鍵を持って玄関へ向かった。
未だに胸の奥でくすぶり続ける様々な思いにけりをつけるために、あの家へ向かおうというのだ。
そこで、彼は、二人の奇妙な女子高生と出会い、すべての真実を知る事となる。