【12】後日譚
二〇二〇年五月十四日の昼過ぎ。
未曾有の病禍により依然として予断を許さない局面が続く中、都内某所の占いショップ『Hexenladen』にて。
カウベルの音と共に入り口を潜り抜けたのは、穂村一樹であった。
彼は一人も客のいない店内を横切り、奥のカウンターで退屈そうに頬杖を突く九尾天全の元へと向かう。
「一応、店は開けているんだな」
「どうせ、お客さん来ないしね」と、言いながらカウンター前にストゥールを置く九尾。
「……病気に効くパワーストーンが売れると思ったんだけどね」
「そんな胡散臭いものが売れるものか」
無遠慮に言って穂村は、ストゥールに腰をおろす。そして右手に持っていたドーナツの箱をカウンターの上に置いた。
「例の地下室の件で色々と報告がある。それから、聞きたい事もな。お茶ついでにどうだ?」
「まあ、見ての通り閑だからいいけど」
九尾はバックヤードから持ってきたティーセットを並べ、電気ポットをカウンター裏のコンセントに繋いでスイッチを入れた。
「あれから、どうなったの? あの男……加納憲一郎だっけ?」
そう質問しながら穂村の前に灰皿を置くと、彼はマスクを外し懐から出したマイルドセブンをくわえた。
「取り合えず、緊急事態宣言が明けるまでは都内の精神科の病棟で預かる事になった」
因みに加納が藤見警察署の留置場居室から突然消えた件と、秩父で発見された件は一般には報道されていない。
穂村が各所に手を回し、箝口令をしいたからだった。
「一応、最近、ようやく落ち着いてきて、少しずつ、何が起こったのか口にし始めたところだ。だが、回復するには時間が掛かるだろうな……」
と、そこで言葉を切り、紫煙をくゆらせる穂村だった。
九尾は何とも言えない表情で「そう」と答え腰をおろす。ドーナツの箱を手繰り寄せ、中から一個取り出して口に運ぶ。有名洋菓子店のあんドーナツであった。
「……で、結局は、あの館の地下室は何だったんだ? 地下室の女というのは、いったい……」
九尾はもぐもぐと咀嚼していたドーナツを飲み込み、穂村の質問に答えた。
「あれはたぶん、元々は誰が考えたのかは解らないけど、虚構の存在だったんだと思う」
「虚構の存在?」
穂村が眉をひそめて煙を吐き出す。すると電気ポットも、しゅっ、しゅっ……と、音を立てて白い湯気を吹き出し始める。
「……人の魂は死の瞬間、恐怖、絶望、悲しみによってバラバラになる。それが、時間を置いて再び集まったものが幽霊とかそういった存在な訳だけど」
「ああ」と相づちを打ちながら煙を吐き出す穂村。
その理屈は、この世界に首を突っ込んで間もなくの頃に別な霊能者から聞かされていたので知っていた。
「そのバラバラになった魂が、元の形に戻らず、“雛形”に流れ込んで、まったく別の存在になる事があるの」
「“雛形”……?」
穂村の言葉に九尾は頷き、電気ポットの湯を二つのカップに入れる。
そして、自らのカップに紅茶のティーバッグを落とした。
「巷説とか説話とか妄想とか……そういったものよ。それが“雛形”になって、新たな怪異が産まれてしまう事がある」
「それじゃあ、何だ……」
穂村は信じられないといった様子で、九尾に問う。
「地下室の女という虚構の存在が、現実になったという事なのか? そんな事が……」
「滅多に起こる事じゃないけどね。本当に極々低い確率。わたしもお目にかかるのは初めてよ」
九尾はそう言って、紅茶を啜ると肩をすくめた。そして、あんドーナツを再び口に入れる。
「……恐らく地下室の女は、あのアトリエの持ち主である横瀬太一の妄想だった。子供の頃にあの館で起こった家政婦の事故死……それを、横瀬は地下室の女のせいだと信じ込んだ。彼は大人になっても、ずっと地下室の女の実在を信じ続けていたのね。それが“雛形”になってしまった」
「じゃあ、あの地下室を封じたのは……」
「それも、きっと横瀬自身よ。横瀬は始め、誰も信じてくれなかった地下室の女の存在を知らしめようとしていた」
「だから、地下室の女の絵を描いて、赤い地下室のサイトを立ちあげたのか」
「そうね。しかし、どこかのタイミングで噂が現実になり始め、それを目の当たりにした横瀬は、自らの妄想が実現した事を喜ぶよりも、恐怖にかられてしまった」
「それで、あの地下室を封じて自殺したのか」
「ええ。それが真相だと思うわ」
「自分で厄介なモノを産み出しておいて、勝手なものだな」
穂村がにべもなく吐き捨て、その言葉に「そうね」と同意する九尾。
そして、二個目のあんドーナツに手を伸ばした。
すると、穂村は何かを思い出したらしく、灰皿に灰を落としながら言葉を紡ぐ。
「ああ、それから、オカルト関連の掲示板などで、いくつか赤い地下室のURLが貼られたレスがあったのだが、そのIPアドレスからあの館に行き着いた。どうも例の地下室にあった端末から投稿されたものらしい」
その書き込みは、横瀬太一が自殺した後の日付もいくつかあったのだという。
「……噂が独り歩きし始めたのよ。言葉通りの意味で。きっと、もう少し時間が経っていたら、犠牲者の数はもっと増えていたかも」
九尾の言葉に、穂村はぞっとしない表情で肩をすくめる。
「それは、笑えん話だな」
「まあ、最初に言ったけれど、こんな事は早々起こらないから。そこまで深刻にならなくてもいいと思うけど」
「君がそう言うなら安心なのだろうが」
穂村は少しだけ冷めた紅茶に口をつける。
「……そう言えば、加納の供述で、君に報告しなければならない事があってな」
「何なの?」
きょとんと首を傾げる九尾。
「加納が地下室の女と遭遇したのは、潜伏しようと忍び込んだある民家だったそうなのだが、どうも、そこの住人が赤い地下室へとアクセスしたらしい。それを加納が覗き見た事で、彼の元に地下室の女がやって来たという訳なのだが……」
何とも歯切れが悪い。
九尾は怪訝な表情で彼の話に聞き入る。
「住人は十代の少女だったらしいのだが、加納はその少女にスタンロッドで散々に痛めつけられたそうだ」
「ん……?」
九尾は首を捻る。そして思い出す。加納憲一郎のいた県は、あの二人が住んでいる県だったという事を。更に……。
「何とか命からがら、その民家から逃亡を果たしたらしいのだが門から出たあとで遭遇した別な少女に、金属の物体を鳩尾へ目がけて投げつけられたらしい」
「んん……?」
あの県出身でそんな無茶苦茶な事をしでかす十代の少女……それも二人……いや、まさか、そんな、でも……九尾の脳裏に嫌な予感が過る。
「俺も気になって向こうの県警に問い合わせてみた」
あの県の女子高校生が全員あんなのだという可能性はあり……得ないだろう。そうなると……。
九尾は生暖かい微笑みを浮かべながら穂村に問うた。
「あの、その二人の名前は……」
「桜井梨沙と茅野循だ」
「ああっ……やっぱり」
九尾は疲れた様子で頭を抱えて項垂れた。
「ともあれ、なぜ、君がその二人を恐れるのか、俺にもほんの少しだけ理解できたよ」
穂村はぞっとしない表情でそう言って、煙草のフィルターを口にした。
(了)
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