【07】その小学生、凶暴につき
二〇二〇年四月二十五日――。
「いやいや、茅野っちは、幽霊はいないと思っていたんでしょ?」
『ええ、そうね』
西木の突っ込みに、茅野は激辛焼きそばを、ふー、ふー、しながら答えた。
「じゃあ、その殺されたあやめさんの幽霊の話は何なの?」
『嘘よ』
茅野があっさりと答える。そして、真っ赤なソースにまみれた麺を一啜りしてから言葉を続ける。
『あの池に他殺死体が浮かんだ事があるのは本当だけど、犯人は酒乱の博打うちじゃなくて強姦魔らしいわ。井戸に捨てられた死体が藤見池に浮かんだエピソードや、被害者の名前が“あやめ”というのは適当よ』
「えぇ……」
困惑気味の西木。
そして、速見が問うた。
『何でわざわざ、そんな嘘を……』
その問いに答えたのは、桜井であった。
『そりゃ、循の作戦だよ。あたしとの勝負に勝つための』
茅野は頷く。
『そうよ。もっともらしい怪談話をでっちあげて梨沙さんを怖がらせようと思ったの。でも』
そう言って、彼女は缶入りのドクターペッパーをぐびりと呷り、それを机の上に置いた。
『まったく、効果はなかったのだけれど……』
それから茅野は、この奇妙な勝負の顛末を懐かしそうに語り始めたのだった――
その日、桜井梨沙は学校を終えると家に帰って準備を整える事にした。
幽霊と戦うに当たって必要なもの……幽霊が苦手なもの……数珠、塩……などと、乏しい知識で考察を重ねた結果、お経を読みながら素手で殴ればいいという結論に達した。
この頃から、桜井はある程度、そういった存在に対して、素手で何とかなりそうだという印象を抱いていたようである。
そして、桜井は、母に「晩御飯は精進料理が食べたい」とリクエストしだした。
前に誰かから、精進料理はお坊さんが食べる料理であると聞いた気がしたので、幽霊との対戦に効きそうだと思ったのだ。
アスリートとして高いパフォーマンスを発揮するには、普段の食生活が大切である事を既に理解していた彼女にとって、精進料理を食べる事は気休め以上の意味合いがあった。
……実際の効果はさておき。
母はというと、当然ながら面倒臭がり、リクエストをまるっと無視して普通のとんかつを揚げた。この日はロース肉の特売日だったのだ。
入浴して身を清めた桜井は、食卓に並んだ精進とはかけ離れた肉の塊とキャベツの千切りの山を見て「まあ、とんかつでもいいか」と思った。
充分に腹を満たす。
それから自室に戻った振りをして着替え、ペンライトを持って、こっそりと窓から家を抜け出した。
自宅から少し離れた場所で準備運動とストレッチを済ませ、夢乃橋記念公園を目指した。
実はここにきて、桜井の脳裏にわずかな葛藤があった。
あの茅野循の話が事実であるならば、記念公園の幽霊は非業の死を遂げた哀れな殺人事件の被害者という事になる。
そんな相手に“退屈だから幽霊をぶちのめしたい”などという理由で武をふるっていいものなのか……。
一応は人を脅かす悪い幽霊をぶちのめすという大義名分があるにはあった。
しかし、幽霊には幽霊の事情がある……まるで宿敵が闇落ちした経緯を知ってしまった少年漫画の主人公のように、桜井は心に迷いを生じさせた。
しかし……。
「まあ、拳で解り合うっていうパターンもあるか」
彼女はあっさりと切り替える。その結論に至るまでの時間は三秒に満たなかった。
そんな訳で、桜井は軽快な足取りで、駅裏の古い住宅街を駆け抜け、コンビニの前を通り過ぎ、田んぼの真ん中を突っ切る農道を渡り、夢乃橋記念公園へと辿り着く。
園内は静まり返り、煌々と輝く街灯がぽつり……ぽつり……と、底なし沼のような夜闇をわずかに照らしていた。
桜井は一切の躊躇をせずに、遊歩道の先にある例の植え込みを目指す。
彼女の左手の明かりが、誰もいない夜の公園内を揺れ動きながら移動する。奥へ、奥へと……。
そうして、いよいよ、桜井の右手に例の植え込みが見えてきた。
彼女は足を止めると、懐中電灯の明かりを銀杏の樹へと向ける。
その瞬間だった。
銀杏の幹の右側。
そこに青白い五本の指が掛かっている事に気がついた。
がり……がり……と、樹の皮に爪を立てて、ひっかいている。
「きた……」
樹の裏側に何かがいる。桜井は身構えた。
ゆっくりと、女の顔が現れる。
長い黒髪で目元は窺えなかったが、その口角は大きく釣りあがっていた。
女はゆっくり……ゆっくり……と、銀杏のうしろの闇から這い出るように姿を見せる。
白いノースリーブのワンピース姿で、胸元は朱色に染まっている。蛯沢の話通りだ。
女は樹の裏側から完全に姿を現すと、にっ……と笑って赤く染まった歯を見せた。
まるで、映画のゾンビのようにふらつきながら、両手を伸ばして桜井の方へと迫りくる。
「むっ……」
桜井は素早く相手を観察する。
幽霊が紫陽花と皐月の間を通り抜けたとき、葉がガサガサと音を立てて揺れた。
つまり、透き通ったりしていない。
物理攻撃が通じる。
幽霊は踝丈の植え込みの柵を跨いで桜井の待ち受ける遊歩道へとやってきた。
つまり、地に足がついている。
柔道の投げ技が通じる。
それらの情報から鑑みて、取り合えず桜井は、通信空手で覚えたばかりだった正拳突きで機先を制する事にした。
そのあとに組みついて“山嵐”を試す……桜井は脳裏にフィニッシュまでの流れをしっかりとイメージする。
そうこうするうちに、幽霊が目の前までやってくる。
「あ″あ″あ″あ″あ″……」
まるで、喉を鳴らすような、震わすような、不気味な呻き声をあげて幽霊は両手を広げた。
桜井は拳を構え息を大きく吸い込むと、
「はぁ!」
心の中で念仏を唱えながら、正拳突きを幽霊の顔面に目がけて発射した。
その瞬間だった。
「ちょっと、待って!」
それは聞き覚えのある声だった。
桜井は寸前でどうにか拳を止める。
幽霊がへろへろと地面に腰を落とした。
「何で怖がらないのよ!」
そう言って、桜井を見あげるその顔は、あの茅野循のものであった。