【11】攻防
すっかりと暗くなり、辺りは闇に包まれていた。
そこは籠目村から伸びた未舗装の坂道だった。
前原健太郎だったモノが、駐車場の方からやってくる。
すると沿道の左側にあった大きな杉の木の影で明かりが瞬く。茅野循が前原の目の前に飛び出した。
「梨沙さん!」
と、叫びながら右手を振りあげる。
そこには、護身用のペッパースプレーが握られていた。前原の顔面に百万スコヴィルを噴霧する。
続いて右側の茂みから、桜井梨沙が飛び出してくる。
茅野と入れ違うように前原の眼前に立つと、気合い一閃――
「はあっ!」
中段突きを腹に見舞う。
どふっ……という鈍い音がして、石礫のような桜井の拳が前原の鳩尾にめり込むが……。
効いている様子はなかった。前原は腹を手で抑えようともしない。そして、ペッパースプレーまみれの顔を拭おうともしない。
大きく見開かれた両目は相変わらず激しく動き続けている。
「な、何だと……!?」
思わず視線をあげて、目を合わせてしまう桜井。
その途端、彼女の胸中に暗い感情が去来する。前原の左手が伸びる。
そこで茅野の声が響き渡った。
「梨沙さんっ!」
「はっ!」
桜井はそこで正気を取り戻す。視線を下げながら素早く組つく。相手の重心を右前に崩し……。
「いやあっ!」
若干気の抜けたかけ声と共に、出足払で前原を引き倒した。
踵を返し少し離れた場所で様子を窺っていた茅野と共に駆け出す。
前原がフラフラと立ちあがる。特にダメージを受けている様子もなく、すぐに歩き出した。
「はぁ……はぁ……腹パンが効かないだと!?」
桜井梨沙が悔しげにほぞを噛み、未舗装の道を全力で駆ける。
斜め右後方では、茅野循が長い黒髪を振り乱しながら必死に彼女のあとを追っている。
前原は足を止めぬまま、ゆっくりと右腕を伸ばした。
ぱすん……と、気の抜けた発砲音がして、茅野の踵のすぐうしろの土が跳ねる。
しかし、桜井と茅野は脇目も振らず、走り続ける。
やがて二人が未舗装の坂道を抜け、廃村のアスファルトの路地へと足を踏み入れたそのときだった。
「成る程……だいたい、解ったわ」
「えっ、マジで!?」
と、桜井が後ろを振り向くと、茅野は右手の廃屋の門へとその身を滑らす。
「ちょっ、循、どこへ行くの?」
すると茅野が門の近くにあった庭木の枝を三十センチばかり手折った。
その直後だった。
庭木の葉がガサガサと揺れて、玄関の隣にあった格子窓の硝子が割れた。
坂道を降りて通りの向こうからやってくる前原が、二回発砲したのだ。
茅野は身を屈め玄関前に移動すると格子戸を開けて手招きする。
「梨沙さん……こっち!」
桜井は頷いて門の中へと駆ける。
二人は廃屋の玄関へと飛び込んだ。
玄関の格子戸の磨り硝子には、ライトに照らされた人影がぼんやりと映り込んでいる。
その人影は上半身をゆらゆらと揺らしたまま、じっと佇んでいる。
いっこうに中へと入ってくる様子はない。
それを玄関から真っ直ぐ伸びた廊下の右側にある部屋の戸口の陰から、人見知りの猫のように顔を出して様子を窺う桜井と茅野。
「……で、どういう事なの? 循」
「あの邪視を双眼鏡越しに覗き込んでしまったあと、ふと疑問に思ったの。近藤さんは、窓越しにナナツメサマの眼を見たと言っていたのに、邪視については何も言っていなかった」
「あー……そういえばそうだったね」
「最初は彼女のおばあちゃんの言う通り“家の中にいるから”だと思った。理屈は解らないけど、家の中にいる限り、ナナツメサマの邪視は通じないのだと……」
「確かに今も、家に入ってこようとしないしね」
桜井は納得した様子で頷くが、茅野は右手の人差し指を横に振り動かす。
「確かに家の中にいる限りナナツメサマに襲われる事はない……でも、それは厳密には正解ではない」
「どゆこと?」
「思い出して欲しいのだけれど、私は廃屋探索のあとで、この籠目村の家には共通点が多いって言ったわよね?」
「あー、うん」
桜井は視線を上に向けて、記憶を反芻する。
「そういえば、話が途中だったよね。何なの? 共通点って」
「それは、この村に残っている家の外に面した戸が、すべて碁盤目状の升格子だって事よ」
「ああ……」
桜井は再び記憶を手繰り、納得した様子で頷く。
そして室内の窓に目線を移す。確かにそこには硝子窓の内側に升格子の障子戸が一枚あった。
「そういえば、八女洞の入り口にも格子があったんだっけ? ナナツメサマの弱点は格子って事?」
「もっと正確に言えば格子や網目でしょうね。近藤さんがナナツメサマを目撃したのは、網戸越しっていう話だったし。もっとも衣服の布を嫌がっていないっていう事は、あまり目が細か過ぎると平気みたいだけれど」
すると、そこで玄関前の陰が動いた。
すっ……と右手を水平にあげてトカレフを射ち始める。
硝子の割れるけたたましい音が鳴り響く。
二人は慌てて顔を引っ込める。
「うわっ……うわっ」
驚いて耳を塞ぐ桜井。茅野は音が鳴り止むと、そろりと顔を出して様子を窺う。
すると、割れた格子の升目の向こうに見えるトカレフのスライドが後退したままなのを確認し、茅野はほくそ笑む。
「どうやら、全弾撃ち尽くしたようね。ずっと、トリガーを引く動作を繰り返しているみたい」
「まったく……けっこう昔の妖怪っぽいから油断してたけど銃を撃ってくるなんてさ。ハイカラなやつだねナナツメサマって」
「でも、素人の片手撃ちのハンドガンなんか、動き回っていれば至近距離でも、そんなに当たるものではないわ」
「ナナツメサマが“新宿の種馬”とか“ルパンの相棒”クラスじゃなくてよかったよ」
桜井は肩を竦めた。
「それは、そうと、そろそろ反撃の時間よ。梨沙さん」
茅野循は悪魔のように笑った。