【06】希望
結局、富田Dなる人物からの連絡は、待てども一向にこなかった。
そのまま、何の解決の糸口も掴めず時間だけが経過する――
とうとう夏祭りの花火大会の前日となった。
その日も朝から部室で頭を抱える茅野と桜井。
絶望と倦怠感が漂い、室内の雰囲気は陰気な墓穴のように暗く沈み込んでいた。
「梨沙さぁん……」
「なーに?」
茅野はヘラヘラと笑いながら言った。
「私、何だか慣れてきちゃったわ……」
「あたしも、あたしも」
「梨沙さぁん……」
「なーに?」
「夏休みの課題……終わったかしら?」
「思い出させないでよぉ……」
桜井が両手で顔を覆った。
と、そこで電子音が鳴り響く。
「あ、あたしのスマホだ」
桜井は、かったるそうに画面を覗き込む。
「誰からかしら?」
「家からだ」
桜井は電話ボタンを押してスマホを耳に当てる。
しばらく、桜井は相づちを打ち短い言葉で電話の向こうの相手とやりとりし、通話を終えた。
「どうしたの? 家で何かがあったのかしら?」
茅野の質問に桜井は興奮した様子で答える。
「循、これ、やったかもしれない」
「……何がよ?」
大して何も期待していないような調子の茅野。
しかし、次の桜井の言葉を聞いた瞬間、彼女もまた居ずまいをただし、その瞳に希望の光を宿す。
「うちにお客さんがきてる。滝沢っていう人だって」
「滝沢……」
あの家の玄関の上部に掲げられていた表札も滝沢だった。
もしも、あの家の関係者だったとしたら……。
なぜ桜井の家を尋ねてきたのか。どこで桜井の事を知ったのかは解らない。
しかし茅野にはそれが、まったくの偶然で、無関係であるとは思えなかった。
「何か、あたしと循に会いたいみたい……待っててもらうように言ったよ。すぐ帰るから、向こうが帰ろうとしても何とか引き止めてってお母さんに頼んだ」
茅野が勢い良く椅子から立ちあがる。
「急いで梨沙さんの家に行くわよ!」
「がってん!」
二人は一路、桜井家へと向かった。
桜井家の和室の居間だった。
桜井梨沙の母が人数分のお茶と豆大福を置いて去ると、くだんの人物が口を開いた。
「本当はもう少し早くお伺いしたかったのだけれど……」
それは、あの日と同じ水色のチュニックワンピースを着た大学生くらいの女性だった。
どこか儚げで憂いを帯びた表情は、これまでの彼女の人生を、雄弁に物語っているかのように思われた。
名前を滝沢侑子という。
あのスウェーデン堀に追いかけられていた女性だった。どうやら桜井と茅野にお礼を言いにきたらしい。
因みに住所は警察官から聞いたのだそうだ。
どうやら二人がくるまでの間、話好きの梨沙の母親からたっぷりと、自分の娘が、いかに素晴らしい柔道選手であったかを聞かされていたらしい。
「まったく、お母さんは……」
桜井が照れ臭そうに菓子折を受け取ると、茅野はそれこそが本題であるとばかりに話を切り出した。
「あの……滝沢さん。ひとつよろしいでしょうか?」
茅野は余所行きの喋り方で問う。
平静さを取りつくろってはいるが、彼女の耳元では不気味な言葉が囁かれ続けている。
因みに桜井のすぐ背後には、赤い大女が立って彼女を見おろしていた。
しかし、こちらもなれたもので、平然とした顔で豆大福にパクついている。
「……滝沢さんは、榛鶴市のご出身なのですか?」
少し間を置いて滝沢がその質問に答えた。
「え……ええ。今は、この藤見市で暮らしていますけど。どうしてそれを?」
茅野は桜井と顔を見合わせ、確信する。
きっと、あの夜のスウェーデン堀も、自らを襲う呪いを解くヒントを求め、彼女に会いにきたのだ。そこで話が拗れ、堀と追い駆けっこになったのであろうと。
「実は私たち、あのあと榛鶴の“滝沢家”へと行ったのです……」
「え……どうして……?」
滝沢は眉間にしわを寄せながら、茅野の話を黙って聞いていた。
茅野と桜井は自分たちが勝手にあの家に立ち入った事を詫びて、現在も自分たちの身に怪異が起こっている事を打ち明けた。
すると滝沢は何かを決心した様子で語り始める。
「あの家に変な噂が立っているのは知っていました。でも、それは私の両親の事が悪い噂になってしまったのだろうと……」
「両親の事とは?」
茅野が聞き返す。
「ええ。私の両親はあの十二年前の火事のすぐあと、自殺しました」
そのとき滝沢は七歳になったばかりで、この藤見市で暮らす親戚に引き取られたのだという。
「それは、その……」
流石の茅野も言葉を詰まらせる。桜井も神妙な表情になった。
しかし、滝沢は微笑んで首を横に振る。
「いえ。もういいんです。その当時の事って、ほとんど覚えてないんです。何か自分で話していても他人事みたいで……」
「そうですか……」
きっと精神的なショックが大き過ぎたのだろう。
心底、申し訳ないとは思ったが気を使っている場合ではないと、茅野は思い直す。
「それで、ご両親の自殺の原因は、やはり、お兄さんの死が……」
奥歯に物の挟まったような言葉でうながすと、滝沢はひとつ頷いてから語り始めた。
「両親と私で火事の後は、あの家で暮らしていたんです。消防車のおかげで水浸しで、酷い有り様でしたが焼けたのは二階だけですし。そのうち落ち着いたら二階も修繕しようという事で……でも、だんだん両親がおかしな事を言い始めて」
「おかしな事というのは?」
「死んだ兄が家の中をうろついている、と……そんなような事を」
当時、彼女の兄である信二と両親は、進路や学業について意見が合わずに折り合いが悪かったらしい。
火事のあった日も、本来なら家族全員で行くはずだった旅行に、信二だけが行かなかったのだとか。直前に両親と喧嘩になったらしい。
「それで、お兄さんだけ家に残っていたんだ……」
と、桜井。右手で顔の回りを飛び交う蝿を払うような仕草をしている。
これは、赤い大女が腰を屈めて彼女の顔を覗き込んでくる為、髪の毛が垂れてきて鬱陶しいのだ。
もちろん、茅野と滝沢には何も見えていない。
「……それで父も母も、兄を一人で家に置いていった事への罪悪感があったらしくて、それで気を病んでしまったのだろうと」
きっと、この両親の死もあの家の呪いの仕業なのだろう……茅野はそう考えた。
「成る程。では、貴女の身におかしな事は? 例えばおかしな物を見たり、奇妙な声を聞いたり……」
滝沢は首を横に振った。
と、そこで茅野は思考する。火事の後も滝沢があの家で暮らしていて、それでも怪異に見舞われていないのだとしたら、呪いの発動条件は家に立ち入る事ではない。
では、自分たちがやって滝沢がやらなかった事……もしくは、滝沢がやって自分たちがやらなかった事は……。
そこで茅野は閃く。
「……熊のぬいぐるみだ」
「はい?」
滝沢がきょとんとした表情で首を傾げた。
「貴女は、火事の後、あの家で熊のぬいぐるみを見ませんでしたか? 三十センチくらいのツギハギや縫い目のあるゴス風の熊です」
滝沢はしばし思案顔を浮かべてから茅野の問いに答える。
「記憶にないですね。熊のぬいぐるみですか……?」
茅野は半ば確信を抱く。あの熊のぬいぐるみが呪いのスイッチだったのだ。
自分たちはそのスイッチに触れてしまったから呪われたのだと。