【03】怪異
藤見より在来線の下りで一時間半。
榛鶴駅のプラットホームに降り立った桜井と茅野を近くの海から吹き抜ける潮風が包み込む。
改札口へと向かいながら、桜井は仔犬のようにくんくんと鼻を鳴らした。
「磯の匂いがするよ」
「ふふふっ。探索が終わったら、どこかの土産物屋で浜焼きでも食べましょう」
この榛鶴には有名な海水浴場があり、県外からの観光に訪れる人々も多い。そういった客層を狙って、海水浴場の周辺には沢山の土産物屋が軒を連ねている。
その光景を想像したらしい桜井は、にへらと相好を崩した。
「いいねえ……仕事終わりに焼き立ての魚と冷えたラムネをきゅうっといっぱい」
「私は栄螺の腸を貪り喰らいたいわ」
……などと、いつもの調子で駅構内を出る。
そのまま駅前から海沿いを走る通りに出て、綺麗に整備された歩道を歩く。
砂浜には彩り鮮やかな水着たちと、レジャーシートやビーチパラソルが犇めいている。
二人は乾物や海産物を軒先に並べた土産物屋の前を通り過ぎ、浮き輪やビーチボールを持った集団と何度かすれ違う。
やがて河口に架かる大きな橋が見えてきた所で、堤防の上に横たわる道へと入る。
セメントで塗り固められた川縁には何人かの釣り人が糸を垂らし、反対側には古びた家々が建ち並んでいた。
「でもさー、足を踏み入れたら発狂するんだよね? すごい今更だけど割りと怖くない?」
桜井が河川の上空を飛び交う海鳥たちを見ながら、まったく怖くなさそうに言った。
「それに関しての原因は、幻覚作用のあるシロシビンを含んだ菌類の仕業であると推測しているわ。動画では確認できなかったけれど、恐らく発狂の家の内部には、そうした種類の茸や黴がはえている場所があるんじゃないかしら。肝試しに訪れた者たちは、その胞子を吸ってしまった」
「ふうん」
と、いつもの如く解ってなさそうな返事をする桜井。そして茅野は気にせず話を続ける。
「……だから、ちゃんと防塵マスクを持ってきたわ。これで、きっと大丈夫よ。梨沙さんの分もあるから安心して頂戴」
「何だかよく解らないけど、流石だね。循は」
まるでピクニックの最中であるかのような調子の桜井と茅野。
しかし、このあと二人は発狂の家の真の恐ろしさを思い知る事となる……。
その何の変哲もない住宅街の片隅に発狂の家はあった。
二人は門柱の間から続く石畳の先の開かれたままになった玄関を見つめる。
「はい。梨沙さん。防塵マスクよ。軍手もどうぞ」
茅野はリュックからそれらを取り出し桜井に手渡す。
「ありがと」
二人は防塵マスクと軍手を装着する。
そして茅野はいつも通りデジタル一眼カメラで動画撮影をし、桜井はスマホで写真を撮り始めた。
茅野が防塵マスクによって少しこもった声で言う。
「それじゃあ、行くわよ」
「了解! 隊長」
「一応、部長は貴女なのだけれど……」
「その設定、忘れてたよ」
「設定じゃないのだけれど、まあいいわ」
二人は開け放たれた玄関を潜り抜け、湿った薄暗がりへとその身を投じた。
「うーん。特に変わったところはないね」
まず動画と同じように玄関から真っ直ぐ奥へ延びた廊下を進む。
床には空き缶や空き瓶、硝子片にビニール、紙屑などが散乱している。
そして壁に書いてあるスラングを指差して、桜井が茅野にその意味を尋ねる。
「これは、何て意味?」
「イングランドの地名を示すスラングかしら?」
「じゃあ、これは?」
「中央アフリカ共和国を流れるコンゴ川水系に属する河川の事ね」
「じゃあこれは?」
「インカの皇帝の異名よ……」
「ふうん。じゃあ、これは?」
「それも……インカの皇帝を指すスラングのようね」
「ふうん。インカの皇帝、人気者だねえ」
「それはまあ皇帝ですもの。民衆の支持率は大切だわ」
もちろん、全部嘘である。
そんな知能指数の低そうな会話を交わしながら一階をぐるりと回った。
特に変わった事は起こらない。
二人は玄関前まで戻り、階段を登り始める。
めき……めき……と床板が軋み、二階へと辿り着く。
「ここがあの動画でおかしな呻き声の聞こえた場所だけれども」
「特に何もないね」
何事もなく二人は左手へ延びた廊下の先へと向かう。
左右と突き当たりにそれぞれ部屋があり、例の如く扉はすべて外されて入り口の床に倒されていた。正面はトイレらしい。便座の外れた洋式便器が窺えた。
「ここが例の部屋よ」
茅野が左手の部屋を覗き込む。
そこは例の長男が発見された部屋である。
煤けた畳が足元には並んでおり、右手の壁際に押し入れがあった。
茅野がその部屋に足を踏み入れる。彼女の履いたスニーカーの靴底が、グズグズに傷んだ畳に少しだけ埋まる。
それでも臆する事なく茅野は、押し入れに近づく。桜井も神妙な面持ちで続いた。
押し入れの襖は固く閉ざされている。
「行くわよ?」
茅野がデジタル一眼カメラを構えたまま、襖に左手をかける。
「幽霊が出たらパンチさせてもらうよ」
それができてさも当然といった調子で桜井は拳を構える。
その頼もしい相棒の勇姿を一度だけ見やり、茅野はガタガタと酷く引っかかりながらも押し入れを開けた。
すると……。
「あれ?」
桜井がきょとんとした顔で拳をおろした。
押し入れの中は二段になっており、上段の板に何かが置いてある。
それは三十センチ程度の熊のぬいぐるみであった。
ボロボロで真っ黒に焦げている。
元々は装飾としてのツギハギや縫い目がついているゴス風のデザインの物だったらしい。
茅野がカメラのレンズをそのぬいぐるみに向けたまま、恐る恐る左手を伸ばす。
ぬいぐるみの耳を摘まみながら観察する。
「……タグを見る限り、プライズゲームの景品だったみたいね」
そこで桜井が「あ!」と声をあげる。
「どうかしたのかしら、梨沙さん」
「ちょっと、貸して……」
桜井が茅野から受け取ったぬいぐるみの左足を掴み、顔の前でぶらさげる。
「いや、この熊さんさあ、多分あの動画で玄関前の廊下に落っこちてた奴だよ」
そう言って、茅野にぬいぐるみを返した。
「本当に?」
「うん」
桜井はネックストラップでぶらさげたスマホを手早く操作する。
『The Haunted Seeker vol,13 発狂の家』を再生した。
「うーん。これじゃあ画面が小さくて解り難いなあ」
「ちょっと待って頂戴」
そう言って茅野はぬいぐるみを押し入れの上段に戻し、デジタル一眼カメラを桜井に手渡した。因みにカメラは回しっぱなしである。
リュックから愛用の十インチのタブレットを取り出し、代わりに動画を再生した。
すると、スウェーデン堀が発狂の家に入ったすぐ後で桜井が声をあげる。
「ほら。そこだよ。スウェーデンさんの足元」
「本当だわ……」
そこには確かにたった今、茅野が押し入れから取りあげたぬいぐるみがあった。
床に散らばるゴミに埋もれている。スウェーデン堀はそのぬいぐるみを踏みつけていた。
「じゃあ、この動画撮影を終えた後に誰かがこの場所を訪れて、あのぬいぐるみをこの押し入れに……」
茅野はそう言いながら、再びぬいぐるみの方へ目線を向けた。
しかし――
「えっ」
ついさっき、押し入れ上段に置いたはずのぬいぐるみがどこにも見当たらない。
「循……これって……」
流石の桜井も唇を戦慄かせる。
押し入れの奥や下段を覗き込んでも何もない。
「まさか、ぬいぐるみが勝手に動いたとでもいうのかしら……?」
「としか、思えないけど……」
茅野と桜井はお互いにぞっとしない表情で顔を見合わせた。




