【02】婚約破棄
二〇二〇年一月二十五日の夜だった。
その都内某所にあるファミレスの四人がけの席では、一組の男女が向かい合っていた。
畠野俊郎と桃田愛美である。
淡いオレンジ色の照明に照らされた二人。
その表情は見事に対照的だった。
まるで死刑執行を言い渡された囚人のような畠野。
そして桃田は、お伽噺話の女王様もかくやといった仕草で、ローズヒップティーを口にふくんで優雅に微笑んだ。
カップの底をソーサーにつけると、右手の指先から指輪を外して、テーブルの上に置く。
その瞬間、畠野は顔をあげて、くしゃりと表情を歪ませた。
それは彼が桃田に贈った愛の証――婚約指輪であった。
「これ、お返しします」
とどめとばかりに容赦なく、畠野の方へと指輪を押しやる桃田。
畠野はがくりともう一度、項垂れて考える。
自分の何がいけなかったのだろうか……。
畠野は心の底から桃田愛美の事を愛していた。
これまで彼女の為に懸命に尽くしてきた。
自分にできる事は何でもしたし、彼女のために月々の給料の半分が吹っ飛んだ。
それでも畠野は、彼女に文句一つ言った事はなかった。それなのになぜ……。
そこで彼は思い出す。
「もしかして、マナちゃん。あの先週言ってた事って本気だったの……?」
その問いかけに桃田は、涙目のアヒル口になって頷いた。
なんて事だと畠野は頭を抱えた。
それは先週末。
ドライブデートの最中に、桃田がこんな事を言い出した。
『マナね。パティシエになるのが夢だったの』
その為の専門学校へ通いたいので費用を援助して欲しいと彼女は願い出てきた。
桃田が気まぐれで突拍子もない事を言い出すのは、これまでにもよくあった。
だから、畠野は適当に聞き流して誤魔化したのだが……。
「もうトシくんゎ、マナのコト、どうでもよくなっちゃったのかなぁって……」
胸焼けしそうなくらいの甘い声でそう言って、再びアヒル口でうつむく桃田。
畠野は大いに慌てる。
「そんな! 僕はマナちゃんの事を愛してるっ! どうでもよくなんか……」
桃田が望む事は、これまでに何でもしてきた。
彼女が身につけているハイブランドの品々も、彼女が乗り回している車も、すべて畠野が買い与えた物だ。
もちろんパティシエになるという彼女の夢も応援してやりたかった。
しかし、名家に生まれ、都内の有名企業でそれなりのポストに就いた彼の貯蓄は底をついていた。
もう借金でもするしかない。
畠野は肩を震わせながら歯を軋らせる。
そんな彼に追い討ちをかけるように、桃田は言う。
「トシくんの愛を証明してみせてょぉ……」
『正直、心の中では、彼女が僕を金蔓としか見ていない事は、薄々ですが理解していました』
画面の向こうで肩を落とす畠野の言葉を聞いて、九尾は色々と腑に落ちたような気がした。
始めに“婚約者だった”と過去形を用いたのは、既に彼女への気持ちが冷めているという事なのだろう。
『それでも、純粋に尽くしていれば、きっとそのうち僕の想いが伝わると……そう信じて』
畠野が言葉を詰まらせる。すると、窓から蒼白い雷光が射し込み、さあ……と、激しい雨音が聞こえてきた。雷鳴が響き渡る。
「貴方の両親は、彼女について何と?」
『両親は知りません。まだ直接、紹介していませんでした。結婚を前提に交際している女性がいる事は話していましたが』
桃田の都合がなかなか合わず、実家に彼女を連れて行きそびれていたらしい。
桃田は畠野の両親と顔を合わせるつもりなどなかったに違いない。
九尾はやるせない気持ちになった。
「なぜそこまでして彼女に……?」
無粋だと思いつつも、その問いを畠野に投げかけた。
『もう今年の七月で、僕は三十九になります』
「そうは見えませんが」
お世辞ではない。
とうの昔に四十を過ぎているように思えた。
心労のせいだろうか。畠野という男はずいぶんと老いているように九尾の目には映った。
『この歳になると、周囲の目線が色々と変わってくるんですよ……』
「ああ」
九尾は何となく彼が何を言わんとしているのかを察した。
以前に占った事のある男性の話だと、歳を重ねるにつれて独身者に対する風当たりが強くなるのは、何も女性だけに限った話ではないのだという。
男は所帯を持って一人前……そんな価値観が世間一般には存在し、妙齢の独身者は侮られ、何かと偏見の目で見られる。
ときにはダイレクトに出世や仕事などへ影響を及ぼす事もあるらしい。
そうした差別や偏見を受けていると、当の本人も“自分は人間的な部分に問題があるのでは”という気分になってくるのだという。
昨今では、そういった偏見は昔ほど酷くはなくなっている。しかし、旧態依然とした物の見方をする者は、どこにでも存在しうるのだ。
『僕は、子供のときはずっと勉強に打ち込み、大人になってからは仕事一筋でした。仕事以外で異性と面と向かって話すのは凄く苦手です。今だって、実はけっこう緊張しています。ネット越しじゃなかったら先生と、こうしてお話する事はできなかったと思います』
「そうですか……」
九尾は苦笑する。
『ですから、マナちゃんとの出会いは、僕にとっての最後のチャンスだったんです。それに彼女の金遣いが荒くなったのは、ここ最近の事でして……』
バッグや装飾品をねだられたり、小遣いを無心されたりする事はあったが、付き合いたての当初は、そこまで酷くはなかったのだという。
「そうですか……」
九尾はすぐに思い当たる。
これは詐欺師などがよく使う“フットインザドア”という手法だ。
まずは小さな頼みごとを承諾させてから、段階的に要求を大きなものにしてゆく。そうした方が、初めから大きな要求をするよりも受け入れられ易くなるのだという。
間違いなく桃田は、搾取を目的として畠野に近づいたのだ。
そして要求が大きくなったという事は、終わりが近づいていた事を意味する。
恐らく桃田は、もう絞り取るだけ絞り取って、旨味の薄くなった畠野に見切りをつけて、行方をくらましたのだろう。
「それで、どうされたんですか?」
『その日は、そのままお開きになって、彼女を三鷹にある自宅のマンションまで送り届けました』
このときの畠野は、何とかして桃田のためにお金を作りたいと焦っていたのだという。
因みに彼女が要求する金額は、ある大手専門学校の初年度納入費用の二百万である。
『まずは親を頼りました。実家に電話を掛けて、お金を貸して欲しいと。そうなると、当然ながら理由を聞かれる事になりますよね?』
「まあ、そうですね。安くはない金額ですし」
『でも、僕の両親はとても厳格で、理由を正直に話せば、きっと首を縦には振ってくれない事は解っていました』
一応は“人身事故を起こして示談金が必要である”という嘘は用意してあったのだが、細かい部分や予想外の事を訊かれて言葉に詰まってしまった。
結果、両親には怪しまれただけで、了承を得る事ができず、その場は有耶無耶にして済ませたのだという。
『そのあと、マナちゃんにメッセージを送りました。“両親にお金を貸してくれって頼んだけど、駄目だったよ。どうしよう”と。でも、返事はありませんでした。既読はついたので、読んではくれたようですが』
この“既読”が、彼に対して桃田が取った最後のリアクションとなったのだという。
これ以降、桃田愛実は完全に彼の前から姿を消した。
まるで、そんな人物は最初から存在しなかったかのように……。
 




