【00】連鎖
享保六年の夏。
見事な松の枝に縊られた赤子たちが、生温い風に揺られていた。
既に身体のいたるところには米粒のような蛆が蠢いている。
その輝きを失った眼球が見下ろすのは、荒れ果てた村であった。
田畑は干からび、溜め池や水路は渇れ、道端の野草はだらしなく萎れている。村の奥に見える大きな河にも流れはない。
往来には人の姿はなく、肋の浮いた野良犬がうなだれながら彷徨くばかりであった。
狂気じみた陽光に照らされ、すべてが干あがっている。
そんな灼熱地獄と化した村に、やがて陰りが射した。
いつの間にか南西よりやってきた黒雲が、空一面を覆っていたのだ。
ごおう……と天が鳴く。
次の瞬間、暗緑色に腐敗した赤子の頬に、温かで大きな雨粒が落ちた――。
外から蝉の鳴き声が微かに聞こえる。
周囲には陰気な薄暗がりと湿ったコンクリートの臭いが充満していた。
『B222』
錆びついた扉のプレートに刻印された文字列を、懐中電灯の丸い明かりが照らしあげる。
それを見ながら、当時高校一年生だった桃田愛美は唇をニヤリと歪めた。
「この部屋? 自殺があったのって」
彼女の質問に答えたのは桐生保という同級生の男子であった。
「ああ。ここだよ」
すると、眼鏡の少女がうわずった声をあげた。
「ねえ……もう帰ろ?」
彼女は遠野瑞江。
遠野もまた桃田らと同じ高校の一年生であった。
この日、三人は他の同級生たち十数名と、地元から離れた山間の河原へ遊びにきていた。
パラソルやシートなどの準備が終わってから、各々が自由に行動し始めた矢先だった。
桐生は思い出す。近くの丘の上に今も鎮座する廃墟の事を。
『市営一本松団地』
地元では有名な心霊スポットで、そのB棟の222号室で一家心中があったと聞き及んでいた。
そんな曰くつきの場所へと、桐生は以前より好意を抱いていた桃田を誘った。
すると桃田が、肝試しならば怖がるやつがいないとつまらないと言い出し、小心者の遠野に声をかけた。
こうして三人は一本松団地へとやってきたのだが……。
「自殺したのは三人家族だったらしい。外から見て何の問題もない普通の家族だったって話だ」
桐生は脅える遠野を見て嗜虐的な笑みを浮かべながら話を続ける。
「ベランダの手すりに結んだロープを首にかけて、飛び降りたらしいんだが…… 骨が外れて、首がびろーんって、千切れそうなくらい伸びてたらしいぜ」
遠野がごくり……と、大きく喉を鳴らした。
「それで、今でもベランダから下を覗くと、その首を縊った家族が、怨めしそうな顔でぶらさがっているんだとよ……」
「わっ!!」
突然、桃田が大声をあげた。
すると遠野は「ひぃ」と、短い悲鳴をあげて飛びあがる。
そのまま尻餅を突いて転んでしまった。
桃田と桐生の意地の悪い笑い声が響き渡る。
「あんたさぁ……ビビり過ぎ」
桃田が呆れ顔で肩を竦めた。
「やっぱ、こいつ連れてきて正解だったぜ」
桐生は携帯電話を取り出して、涙目で見あげる遠野の顔を撮影し始めた。
薄暗がりにフラッシュが瞬く。
それを横目にして桃田が玄関扉のドアノブに手をかけた。そのまま捻る。
「あら、残念。鍵が閉まっているわ」
「マジかよ。ここからが本番だっつーのに。ちょっと、貸してみ?」
桐生が肩で桃田を押し退けて、ドアノブを掴んだ。すると、その瞬間、まるで老婆の断末魔の如き軋んだ音が鳴り響き、扉がひとりでに開いた。
「あれ? 開いてる……」
「錆びついて引っかかってたんだろ。中に入ろうぜ?」
桐生がほくそ笑む。
「ねえ、やめようよお……」
遠野がポロポロと涙をこぼす。それを見た桃田は肩をすくめて冷酷に言い放った。
「んじゃ、あんた、ここで独りで待ってる? 先に一人で帰ったら、ぶっ殺すからね?」
「ひっ。わ……私もいくぅ……」
その遠野の返答を聞いて、桃田は満足げに頷き『B222』の扉を開けた。
桐生がその後ろに続く。
「ほら、置いてくよ?」
桃田はドアを押さえつけながら振り返り、遠野に向かって言った。
「待って……待ってよぉ……」
膝を震わせ、涙目になって、遠野はようやく決心を固めて玄関扉の向こうへと足を踏み入れた。
ばたん……という重々しい音が鳴り響く。
室内は荒れ果てていた。
空き缶や空き瓶、煙草の吸い殻、弁当や惣菜のパック、ビニール袋などがいたるところに散乱している。
壁はグラフィティアートに占領され、まるでニューヨークかどこかの裏路地のようだ。
三人はキッチン、浴室やトイレ、和室などを巡り、最後に建物正面に位置するリビングへとやってきた。
硝子の割れ落ちた掃き出し窓の向こうからは、真夏の陽光が射し込んでいる。
三人はベランダに出て横並びになり、真下を覗き込んだ。
特に何もない。真下には背の高い雑草に覆われた花壇があるばかりだ。
「つまんない。そろそろ帰ろっか?」
桃田が鼻白んだ様子で言った。
すると、そのときだった。
「おい。これ、見ろよ」
桐生が手すりに結ばれていた紐に気がつく。
手繰り寄せると、その先端は、ちょうど人の頭がくぐれる程度の輪になっていた。
遠野が短い悲鳴をあげる。
「いやっ。この紐、その一家心中のときのやつなのかなあ……」
桃田は小馬鹿にした調子で鼻を鳴らした。
「そんなの残ってる訳がないでしょ。誰かの悪戯よ」
そう言って、いち早くベランダの手すりから離れる。
「もう私、飽きちゃった。早く帰りましょうよ」
「ああ、そうだな。腹も減ったし」
桐生が頷いた。
「呪われたりしてないかな? 私たち」
不安げな表情の遠野を一瞥すると、桃田は呆れ顔で溜め息を吐く。
「んな訳ないでしょ。いくわよ?」
そう言って、ベランダに背を向けて掃き出し窓の敷居を跨いだ。
すると、その瞬間だった。
どん……という鈍い衝撃音が耳をついた。流石の桃田も背筋を震わせる。
「びっくりした……何の音? 今の」
苦笑いしながら振り返る。
「は?」
桃田は大きく目を見開き、言葉を失う。
それは手すりの支柱の向こう側だった。
首を縊り、ぶらさがった桐生の真っ赤になった顔が見えた。
その半開きの口からは、長く飛び出した舌が垂れさがっている。
ぷるぷると目蓋を痙攣させ、口から泡を吹きこぼしていた。
「え……何これ……」
桃田は頭が真っ白になった。
まるで現実感がない。冗談か嘘。それ以外だとは、どうしても思えなかった。
一方の遠野も、呆然とした表情で床にしゃがみ込んだまま動けずにいた。
彼女の穿いていたハーフパンツに失禁の染みが広がる。
そんな遠野に向かって、桃田はヒステリックに怒鳴り声をあげる。
「何があったのよッ!! ねえッ!!」
遠野が唇を戦慄かせながら、半笑いで答える。
「き、桐生君、急に飛び降りた……」
「は!?」
「あの手すりにぶらさがってたロープを首にかけて、いきなり飛び降りた……」
そう言って、遠野はヘラヘラと笑いながら泣き始めた。
「そんな……」
桃田もその場に腰を落とす。
手すりの格子の向こうに吊るされた桐生の顔色は、既に黒みがかった紫になっていた。
 




