Interlude 二人のおうち時間
二〇二〇年五月六日十六時十五分。
赤い壁紙に少しだけ緑がかった照明……その奇抜な色合いから、この部屋の主がまともな感性を持ち合わせていないであろう事は明白だった。
更に壁一面を覆う大きな棚には、妖しげな書籍や何だかよく解らない奇怪な物が並んでいる。
その中でも一際目を引くのは、一升サイズの硝子瓶の中でプカプカと浮かぶ一匹の蝮であった。
「……“深きものども”たちの襲撃をどうにか退けた貴女は、阿鼻叫喚の地獄と化した地下室を奥へと進んだ」
この部屋の主である茅野循が、机の上のウェブカメラを見ながら、圧し殺した声で語る。
「……床には誘拐された者たちの手足や臓物が散らばり、吐き気をもよおすような臭いが辺りに充満していた」
その声に耳を傾けながら緊張した面持ちで、ごくりと唾を飲み込んだのは、ノートパソコンの画面に映った桜井梨沙である。
彼女もどうやら自室にいるらしい。
茅野と同じくノートパソコンを開き、ヘッドセットを被っている。
円形のちゃぶ台の前に腰をおろした彼女の背後にも本棚があった。
そこに並ぶ背表紙の殆どが少年漫画であったが、ライトノベルや格闘技関係の雑誌もいくつかあった。
壁紙の色から照明まで全てが猟奇じみた茅野の部屋とは対照的に、普通の十代の部屋といった様相である。
ともあれ、画面の中の桜井は真剣な表情で茅野の語りに耳を傾けていた。
「すると、貴女のかざした懐中電灯の光の中に、古びた木製の登り階段が浮かびあがる。階段の上部は木板の蓋によって閉ざされていた。どうやら地上へと通じているらしい」
『それじゃあ、階段を登って《聞き耳》』
「それならば、ダイスを振って頂戴」
画面の向こうの桜井は、黄色と赤の十面体ダイスをちゃぶ台の上に転がす。
……結果は黄色が3、赤のダイスが2であった。
『32』
「何も聞こえない……と、思いきや、微かに暖炉にくべた薪の弾ける音が聞こえた」
『誰かがいる……? 鍵は?』
「かかっていない」
その言葉を聞いた桜井は両腕を組み合わせて悩み出す。
そして……。
『虎穴入らずんば虎児を得ず! 行くよ。蓋を開ける!』
「貴女ならそう言うと思ったわ」
茅野がニヤリと笑う。
「そこは館のリビングだった。燃え盛る暖炉の前に“妙法蟲聲經”の写本を手にした鈴木が立っていた」
『えっ!? えっ!? 何で? ここでSAN値チェック?』
本気で驚いた様子の桜井。どうやら意外な人物と遭遇したらしい。
茅野は淡々と続ける。
「チェックはまだいいわ……鈴木は世界の全てを嘲るような冒涜的な笑みを浮かべながら言った。“君のお陰で、とても楽しませてもらったよ。これはご褒美だ。しかと見たまえ。鈴木の姿が歪む。彼は“這い寄る混沌”ニャルラトホテプであったのだ!」
『うへえ、またこいつか』
桜井が本気で嫌そうな顔をする。
「じゃあ、SAN値チェックお願い」
桜井がダイスを転がす。
『84。失敗。いちでぃーひゃくだっけ?』
「そうよ」
茅野循が悪魔のように笑う。
『まだ、望みはあるッ!』
再び桜井が勢いよくダイスを転がす。
その結果を見た桜井の表情がどんよりと翳る。
『SAN値直葬だよ……』
「あら、残念。ゲームオーバーね」
『このキャラ、割りと長持ちしたけど、今回のシナリオは乗り切れなかったか……』
などと言って、肩を落とす桜井。しかし、その顔はどこか楽しげだった。
「あそこで引き返せば、生存の目は充分にあったわ。一応、伏線はいくつか張ってあったのだけれど」
茅野も満足げな笑みを浮かべている。
このようにコロナ禍の自粛期間中、二人はもっぱらオンラインで様々なゲームに興じて遊んでいた。
最近の流行りはTRPGである。
『次は生き残る。新しいキャラクターを作り直すよ』
と、桜井は意気込むが、茅野の方が残念そうに肩を竦めた。
「まだ新しいシナリオはできてないわ。ちょうど切りもよいし明日にしましょう」
『そっか。仕方ない……』
しょんぼりとする桜井。
そこで茅野は話題の転換をはかる。
「ところで梨沙さん」
『何?』
「お店の方は大丈夫かしら?」
“お店”とは、桜井の姉である武井智子と夫の建三が営む“洋食、喫茶うさぎの家”の事である。桜井のバイト先でもあった。
『テイクアウトとデリバリー主体でなんとかしのいでいるよ』
「そう。それは、よかったわ」
『もう夜鳥島から帰ったら、テイクアウトとデリバリーを始める準備は整ってたからね。チラシも刷り終わってたし』
「智子さん、そういうところ、抜け目がないわよね」
桜井と茅野が夜鳥島に行って帰ってきたのが、三月の頭頃だった。今でこそ、テイクアウトやデリバリーに力を入れる飲食店は多数になったが、かなり迅速な対応であったといえる。
『あれは、我が姉の見習うべき点だよ。因みに原価の安い照り焼きチキンサンドセットと“コロナに勝つカレー弁当”が割りと好調なんだ』
茅野も何度かナポリタン弁当を頼んだ事があったが、その二つはまだ食べた事がなかった。
「コロナに勝つカレーを今日の夕御飯にしようかしら」
『普通のカツカレー弁当なんだけどね』
と、桜井が実も蓋もない事を言う。
『まあうちの店を利用してくれるのはありがたいけど、立夏のとこもテイクアウト始めたみたいだから、そっちもよろしく』
立夏とは、二人の後輩である速見立夏の事である。彼女の生家は“焼肉はやみ”という焼肉屋であった。
「それじゃあ今日は、速見さんのところにしようかしら」
『よろしく頼むよ。うちにはピラコちゃんが憑いているからね』
「それもそうね」
『ところで、カオルくんは元気?』
茅野薫は茅野循の弟である。
「薫は、ずっと筋トレばかりしてるわ。全体的な筋肉のサイズがワンランク大きくなったわね」
『へえ』
「姉としては、いつまでも可愛い弟のままでいて欲しいのだけれど。少し複雑だわ」
茅野は物憂げに溜め息を吐く。
そこで桜井が得意気な顔で胸を張った。
『あたしもトレーニングはしてるよ』
「そういえば、前腕が少したくましくなってるみたいだけれど……」
『筋肉はあって困る事はないからね』
桜井は一見すると小柄で細身だが、非常に引き締まった身体をしている。
その体型や筋肉量は、かつて女子柔道選手として名を馳せていた時代からそれほど変化していない。
それは彼女の弛まぬ研鑽の賜物であった。
「それから、西木さんは相変わらずみたいね」
『うん。この前、綺麗な写真が送られてきたよ』
二人の友人である西木千里は、人気のない田園地帯で、風景や野鳥などの撮影に時間を費やしているらしい。
「みんな、何とか元気にやってるみたいね」
『そうだねえ……』
と、しみじみとした口調で桜井が答えた瞬間であった。
二人のスマホが同時に鳴った。
「あら」
『おや』
二人の知己である霊能者九尾天全からのメッセージだった。
『“二人に話したい事があるんだけど”だってさ。このURLって……』
「ビデオ会議アプリの招待URLみたいね」
『これに入れって事?』
「そうみたいね」
桜井と茅野は画面越しに目を合わせる。
「これは久々に面白くなりそうね」
『だね。九尾センセなら間違いなく面白いはずだよ』
二人はにっこりと笑った。




