【01】捕り物
『洋食、喫茶うさぎの家』
藤見市の繁華街から少し外れた昔ながらの住宅街の一画に所在する。
この日もそこそこの客の入りだった。
その閉店時刻を過ぎて静まり帰った店内にて。
厨房でフライパンを振るい、波打つナポリタンの中でタコさんウインナーを泳がせるのは桜井梨沙である。
ケチャップが煮詰まり、芳ばしい香が立ってきたので醤油を鍋肌沿いにそそぎ、フライパンを傾け焦がす。
手早くトングで混ぜてから、均等に二つの皿に盛りつけた。
手を洗うと皿を両手に持ち「お疲れー」と、厨房の奥でキャベツの繊切りに勤しむ中年男に声をかけてカウンターへと出る。
そして、その皿のひとつを茅野循の前に置いた。
「はい。ナポリタン」
「ふふっ。遠慮なくご馳走になるわ。いただきます」
茅野は上機嫌な様子で、あつあつのナポリタンにタバスコを大量にぶっかけ始める。
まるで死体に矢鱈滅多ら、斧を振りおろす殺人鬼のような顔だ。
桜井は頭巾とエプロンを外し、適当な場所に置くと、カウンター内から出ようとした。
するとカウンター脇のレジで〆作業を行っていた女性が唇を尖らせる。
「ほら! 梨沙! 適当なところに置かないの。本当にずぼらなんだから」
彼女こそ桜井梨沙の実姉である武井智子である。下手をすると十代半ばにすら見える容姿は、妹の梨沙とよく似ていた。
因みに厨房でキャベツを繊切りしていたのが、智子の夫である武井建三であった。
元自衛官で柔道と剣道の有段者でもある寡黙な男だ。
姉の言葉に桜井は唇を尖らせながらも、素直に頭巾を綺麗に畳んでエプロンと一緒にまとめて片付ける。
そして、ようやく茅野の隣に座り、一息吐いた。
このうさぎの家は武井夫妻が経営する店で、桜井梨沙のバイト先でもある。
時給は安いが、基本的に自分で勝手に作るなら賄い食い放題なので、食いしん坊の桜井にとっては天国のような職場であった。
この日も自作のナポリタンにたっぷりと粉チーズをかけ始める桜井。
「ここはとあるレストラン♪ 人気メニューはナポリタン♪」
「梨沙さん、それはいけないわ」
……などと、訳の解らないやりとりを繰り広げナポリタンを食べ終わる二人。
それから、一緒に帰路に着く事にした。
桜井の家はこの店から徒歩十分程の場所にある自衛隊の駐屯地のすぐ近くにあった。
一方の茅野の家は駅裏にあり、もう少し遠い。
この藤見市の中心部は、かつて城下町だった名残か路地は細く、迷路のように無駄に入り組んでいる。明かりは外灯のみで薄暗い。
「……そろそろ、夏休みも終わりだけど、どこか行きたいよね。海とか」
既にお盆が過ぎ、その前に桜井は無事に補習を終えていた。
先日小学生時代から何度も戦ってきた杉本奈緒の死がニュースで報じられ、少し落ち込んでいた彼女であったが、今は表面的には立ち直っていた。
これは茅野も意外に感じた事だが、桜井は杉本の事をよく覚えていた。
彼女は杉本を『むき出しの闘志が凄くて、いつも油断のならない相手だった』と評した。
桜井が自分以外の選手について口にする事はあまりない。
だから、ずっと、彼女は対戦相手には興味がないものだと茅野は思っていた。
柔道家として名を馳せていた頃の桜井は、まさに比類なき天才であったからだ。
彼女の遠く彼方を見つめているかのような、ぼんやりとした眼差しは、まるで相手を見ていないかのようだった。
しかし、実際は他の相手の事を、かなり事細かに覚えているようだった。
それこそ、一回しか対戦した事のないような、数秒で一本勝ちをした相手の事も……。
そういえば、彼女がバイトでオーダーを間違えただとか、そういう話をいっさい聞かない事に茅野は気がつく。バイト先のメニューのレシピもすべて覚えている。
そもそも桜井は、茅野が自分で話した事を忘れているような話題までよく記憶している事が多かった。
この記憶力を勉学に生かしてくれれば……と茅野は真剣に願ったが、二秒で諦めた。
そして何となく、杉本が桜井を呪った動機について察していたので、これで少しは彼女も報われただろうか……と、神妙な気持ちになった。
もっとも、死んでなお劣等感を拗らせている可能性もあるので、桜井が杉本の墓前に手を合わせに行こうとするのは全力で止めた。
今度は下手をすると右膝だけでは済まないかもしれないからだ。触らぬ神に祟りなしである。
「……そうね。海沿いの心霊スポットを探しておくわ」
「そういう事じゃなかったんだけど、まあ良いか。心霊スポットも案外楽しいものだしね」
と、桜井が苦笑した瞬間だった。
前方から水色のチュニックワンピースを着た女が駆けてくる。歳は二十前後だろうか。どうにもただならぬ様子である。
「待て、オラ! クソ女ッ!」
そして、その後ろから男が追ってくる。波うった長髪で神経質そうな丸眼鏡をかけていた。
「梨沙さん!」
「がってん!」
逃げてきた女が叫ぶ。
「助けて! 警察呼んで!」
桜井が女と入れ違いに前へと出る。
茅野は冷静にスマホで一部始終を動画で撮影していた。
しかし、男はそれすら見えていない様子でわめき散らす。
「……んだよ、テメー! どけよそこ!」
目が血走っており、明らかに冷静ではない。しかし桜井はまったく臆す事なく言い放つ。
「警察に捕まるか、ここは大人しく退いて、あとで警察に捕まるか、とにかくひたすら警察に捕まるか、どれか好きなの選んで!」
「テメー、ふざけてんのかッ!」
男が桜井の肩に右手を伸ばす。
桜井は易々とその手首を取って捻る。すると、男はまるで自分から地面に飛び込むかのようにアスファルトの上にその身を横たえた。
「痛たたた……離せッ! テメー何なんだよッ! 関係ねーだろクソッ!」
「久々に燃えてきた!」
興奮したらしい桜井はそのまま腕ひしぎに移行する。流れるように技が決まり、男が喚き散らす。
「ギブ、ギブ、マジで止めて……本当に止めてぇ……お前、何なのマジで……握力……握力がおかしいって! お前の握力!!」
男が半泣きになる。その光景を見て茅野は苦笑した。
「ときおり思うのだけれど、貴女はまだ現役で充分にやれるんじゃないかしら?」
……と、そこでパトカーのサイレンの音が近づいてきた。近隣の住人が女の叫び声を聞いて通報したのだろう。
駆けつけた警官は、大の男に小柄な女が路上で腕ひしぎをかける光景を見て唖然とするのだった。
それから、その場で事情聴取に応じる桜井と茅野。
因みに桜井は「やり過ぎ」と警察官に怒られた。しかし、助けた女からは何度も感謝される。
それから、後日連絡があるかもしれない旨を警官から告げられ、二人は解放される。
そのまま帰路に着いたので、そのあとの事はよく知らなかった。




