【08】作法
「本当に帰り道、解るんだろうな!?」
豊治はリーフの運転席のドアを開けながら二人の少女に尋ねた。
すると、黒髪の少女が確信めいた表情で頷く。
「大丈夫よ。サイリウムを辿って行けば、あの橋まで戻れるわ」
「サイリウム……?」
豊治には彼女が何を言っているのかさっぱり解らなかった。しかし、現状で他に頼れる者もない。
豊治は苦虫を噛み潰したような顔で「乗れ!」と言って運転席のシートに腰を埋めた。苛立ちと不安をぶつけるかのように扉を乱暴に閉める。
すると、小柄な少女が後部座席の扉を開けて乗り込んできた。
そして、「おっ……失礼します」と声をあげる。黒髪の少女も続いて「あら? お邪魔するわ」と言ってあとに続いた。
「それじゃあ、行くぞ? 本当に大丈夫なんだろうな?」
豊治がルームミラー越しに訝しげな調子で言うと、黒髪の少女が自信ありげに頷いた。
「大丈夫よ。あっちに向かって頂戴」
そう言って、豊治がやってきたのとは別方向を指差した。
豊治は半信半疑のまま、車を走らせた。
時刻は二時を過ぎたところだった。
少女たちの言うように、沿道には青白い輝きが等間隔で続いていた。
彼女らの話では、このサイリウムを目印にして、あの屋敷まで歩いてきたのだという。
そして屋敷の主と思わしき人物に『たった今、玄関の所に着いた者に、橋まで乗せていってもらうとよい』と言われたらしい。
「それが、俺か……」
なぜ、その人物は自分の事を知っていたのか。そもそも、この二人は何なのか……豊治の額を冷たい汗が伝う。
すると、小柄な少女が、状況に似つかわしくない極めて呑気な声をあげた。
「ほんで、ここは結局、何なの?」
その質問に黒髪の少女が答える。
「ここが何なのか、そこまではよく解らないわ。ただあの屋敷の二階の大座敷にいた人たち」
「ああ、あの宴会してた人たちね」
小柄な少女が応じる。
当然ながら豊治には何の事かは解らない。しかし、話の腰を折ろうとはせずに、じっと耳を傾け続けた。どうやら、これまでの言動から彼女は訳知りの様子だからだ。
「あの人たちがやっていた、あの仕草……」
そう言って、黒髪の少女は己の右手の甲と左手の甲をコツコツと合わせた。
「ああ、それそれ。その拍手の逆みたいなのって何なの?」
小柄な少女が再び問うた。そこで豊治がルームミラーに視線をやると、黒髪の少女の得意気な顔が映り込んでいた。
「あれは、“拍手の逆”そのものよ。“逆拍手”っていうの」
「ぎゃく……はくしゅ……」
「起源は古事記で言代主という神が、国譲りの際に行った仕草だと言われているわ」
「くにゆずり……?」
「それについては長くなるから、簡単に説明するけれど、天照は解るわよね?」
「ああ、うん。何となく。偉い神様だよね?」
小柄な少女のざっくりとした理解に黒髪の少女は首肯する。
「そうよ。その天照の使いに言代主は、国を寄越せと強く言われて、それに屈したのよ」
「つまり、天照さんにカツアゲされたんだね」
「まあ、だいたいそんな感じね。……それで、通常の拍手は、相手を祝福したい時にやるわよね?」
「うん。まあ……そうだね」
「逆拍手は、その反対の意味で、相手への怨みを込めた仕草……呪術の一種であると言われているわ。つまり、言代主は天照の使いに屈しはしたけれど、逆拍手で呪いを残したと言われているの」
「うわあ、それは怖いね」
と、小柄な少女がまったく怖くなさそうな口調で言った。
黒髪の少女の話はなおも続く。
「更に逆拍手は“死者の拍手”とも言われているわ」
「死者の……それじゃあ、あの大座敷にいたのは……」
「そう。思い出してみて。あの最初に私たちを出迎えてくれた女性」
「うん」
「あの人の襟元、左前だったでしょう?」
小柄な少女は記憶を反芻してから声をあげる。
「うん。そうだった。左前って、確か葬式の時に死んだ人に着物を着せる時の作法だよね?」
「そうよ」
と、黒髪の少女は頷く。
「それだけじゃないわ。座敷の奥にあった屏風……」
「ああ。あれはおかしかったね。上下が逆だったよ。ちょっと、笑いそうになっちゃった」
「あれも“逆さ屏風”といって、葬式の時の作法よ」
「あれもなの!?」
小柄な少女は驚いた様子だった。
「それだけじゃないわ。あの大広間にいた人たちは全員、妙に箸の持ち方がぎこちなかったわよね?」
「あー、うん。食べ物をポロポロ溢していた人が多かったね」
「そう。あれは全員、利き手じゃない方の手で箸を持っていたからじゃないかしら?」
「そう言えば全員、左手に箸を持っていたような気がする。……でも、何で?」
「左前や逆さ屏風など、葬式の時に普段とは逆さの事をするのを“逆さ事”というの」
「さかさ……ごと……」
「そう。これには、死者の世界は現世ではすべてがあべこべであるから、それに倣っているという説や、普段とは逆さの事をやって葬式を日常と切り離す為だとか諸説あるわね。ただ、由来は何であれ、逆さ事は死者にまつわる不吉な行為とされているわ」
逆さ事については、豊治も聞いた事があった。
死者の為の作法。
そこで彼は思い出す。
カーナビから聞こえてきた声……突然、ステレオから鳴り始めたあの歌。
にわかには信じがたい。
しかし、あの桜と百日紅と椿が同時に咲く異様な庭先……この場所が普通ではない事は明白であった。
だが、豊治はそんなオカルトを信じたくはなかった。
そんな物が存在するならば、自分はあの女から逃げる事ができなくなる。
トランクの中の水野舞香の事を思い出し、底知れぬ恐怖と不安が豊治を襲う。
不意にあの女が、すぐ耳元で鼻を鳴らして微笑んだような気がした。




