【03】異世界転移
「……あと三分。少し早かったかしら?」
茅野は右手首に巻いたスイス製のミリタリーウォッチの文字盤に目線を落とす。
桜井と茅野は、山中の渓谷に架かる全長百メートル程の橋の真ん中に並んで立っていた。
霧先橋である。
「そういえば気になってたけど」
桜井がおもむろに問う。
「何かしら?」
「その紙袋のやつは何に使うの?」
茅野は自ら左手に提げた紙袋の中から十センチ程度のプラスチックの棒を取り出す。
「サイリウムよ。道しるべにしようと思って」
「ヘンゼルとグレーテルみたい」
「ええ。二百本あるわ」
茅野が得意気に言う。すると桜井は感心した様子で「流石、用意周到だね」と頷く。
そして周囲の闇を見渡した。
「それにしても、結局この橋で起こった現象って何なんだろうね? アスポーツ現象?」
桜井が首を傾げる。
因みにアスポーツ現象とは、ある物体が別の場所へ瞬間移動してしまう現象の事を言う。
茅野は頭を振り、
「解らないわ。ただ昔から山は天狗や鬼、神そのものが棲む異界だった。ゆえに山での怪異は、古今東西、昔から事欠かない。山の怪談は一つのジャンルとして確立されているほどよ」
「ああ……恐山とか」
「恐山はまさに異界そのものね。だから、霧先橋がどうこうというより、この一帯の山に何か秘密があるのかもしれないわ」
「ふうん……そういえば風呂場の前であったお爺さんも、天狗が棲んでるとか言ってたねえ」
と、暗闇に包まれた頭上をみあげる。
「それから“異界に迷い込んだスレ主が実況”という要素だけを見れば、該当スレでも指摘があったけど“きさらぎ駅”と類似しているわ」
「きさらぎ……?」
桜井が首を傾げると、いつも通り茅野の解説が始まる。
「きさらぎ駅は、スレ主の女性がいつも乗っている遠州鉄道の電車で、見た事も聞いた事もない“きさらぎ駅”という駅に降り立つんだけど」
「そのきさらぎ駅が異世界だったの?」
「そうね。そういう事になっているわ。因みに、このきさらぎ駅の投稿があったのが二〇〇四年の一月頃なんだけど、それからオカルト板ではいくつも類似した話が投稿されたの」
「一種のテンプレになったんだ」
「そう。この霧先橋の一件もそのテンプレに則った物語の一つといえるかもしれないわね」
「ふうん。で、そのきさらぎ駅に降りた女の人はどうなったの?」
「……駅の周りで奇妙な出来事が起こり、携帯で助けを求めるもまともに取り合ってくれない。なんとか通りかかった車に乗せてもらったんだけど……それからスレ主の書き込みはピタリと止んで、それっきりよ」
「駄目でしょ。知らない人の車に乗っちゃあ」
桜井が実も蓋もない突っ込みをする。
「まあこの話は、実話という体裁の創作であると言われてはいるけれど、……」
と、そこで茅野は言葉を区切る。
「そろそろ時間ね。いいかしら? 梨沙さん。零時ちょうどに振り向くわよ」
「らじゃー……天狗さん、ぶっ倒す」
桜井は、しゅっ、しゅっ、と暗闇に向かってワンツーを繰り出す。
そして、茅野がミリタリーウォッチに目線を落としてカウントダウンを始めた。
「……三……二……一……今よ!」
桜井と茅野は振り返ろうとした。
その瞬間、目映いサーチライトが二人を包み込む。
時刻は一月十一日二十三時五十九分であった。
豊治英一が運転するリーフは、その坂道を登り切った。
すると、なだらかに弧を描くカーブの先に峡谷を渡る橋が架かっていた。
錆びついた欄干と黒い門柱。全長は百メートル程。
霧先橋である。
豊治はハンドルを左に回し、その古びた橋を渡ろうとした。
そこで彼は、ぎょっとする。
なぜならヘッドライトの中に、二人の人影が浮かびあがったからだ。
豊治はブレーキで減速しながら、クラクションを鳴らす。
長い黒髪と後頭部で結ばれた栗毛。どちらもハイカー風の格好をした少女だった。
二人は振り向くと、慌てた様子で道の端に駆け寄り、豊治のリーフを避ける。
そのリアクションから、彼女らが幽霊や幻などではなく生きた人間なのだろうと豊治は悟る。
「こんな時間に、こんな場所で何をやっているんだ……まったく」
豊治は苛立ち、舌打ちをして霧先橋を渡り切った。
すると、その途端に周囲の闇が白く霞み始める。
それは霧だった。
「うわっ。びっくりした。こんな時間なのに、こんな山の奥へ何しに来たんだろ?」
桜井が過ぎ去る赤いリーフのテールランプを見ながら言った。
茅野は苦笑しながら肩を竦める。
「まあ、私たちも人の事は言えないけれど。……ていうか、あの車に乗ってた人の方が驚いたかもしれないわ」
「そうだよねえ……。こんな深夜に誰もいない山奥の橋の真ん中で背を向けて立つ少女とか……」
「幽霊だと思われたかもしれないわね」
茅野が悪戯っぽく笑う。すると、桜井はしみじみと納得した様子で頷いた。
「こうやって、都市伝説はできてゆくんだろうねえ……」
「実は死体でも埋めにきたとか……」
茅野の冗談とも本気ともつかない言葉に桜井は笑う。
「まっさかあ!」
「でも、この時間帯に、こんな山奥にくる理由なんて死体遺棄か心霊スポット探訪しか思いつかないけれど」
「それは、循がホラー脳だからだよ」
「それほどでもないわ」
「それほど誉めてはいないんだけど、
それはさておき、どうする?」
その桜井の問いに茅野は即答する。
「取り合えず、麓まで戻ってみましょう。梨沙さん、サイリウムをお願い。五十歩おきに道の端っこに放り投げて」
そう言って茅野は、サイリウムの入った紙袋を桜井に渡した。自らはデジタル一眼カメラの撮影準備を始める。
「りょうかーい」
桜井は紙袋を受け取り、最初の一本を取り出してポキリと折る。それを橋の欄干のたもとに放り投げた。
「それじゃあ、行きましょう」
「らじゃー」
二人は道を戻り始めた。
すると、次第に視界が霞み始め――
「霧?」
桜井が鼻をすんすんと鳴らす。
「どうやら成功のようね。あのスレの通りだわ」
「よーし。異世界探索だー」
桜井と茅野は霧の中を進んだ。その足取りは、まるで春先の草原をピクニックでもするときのように軽やかであった。




