Interlude 茅野循聖誕祭(後編)
「……で、これは何なのよ?」
リビングのソファーに腰を落ち着けた西木が苦笑しながら尋ねた。
ローテーブルを挟んで向かいに座る、白い雨合羽を着た桜井と茅野が顔を見合わせる。
「いや、ペストマスクだけど」
と、さも当然のように言って、桜井はローテーブルの上に置かれたそれを持ちあげる。
鳥の頭部を模した革製の仮面……ペストマスクであった。
ペスト患者の治療に当たった中世の医師たちが身につけていたとされる防護マスクである。
「一応、実用的な効果もあるのよ?」
そう言って茅野は、自分が被っていたペストマスクを持ちあげ、嘴の部分を指差す。
「……ここに香りの強いハーブを入れて死臭を紛らわせたらしいわ」
「今はラベンダーの芳香剤が入っている」と桜井が補足する。
しかし、当然ながら西木には何が何やら解らない。ペストマスクが……ではなく、なぜ二人はペストマスクを被っていたのか。
「……それで、今日は何をするつもりなの?」
呆れながら問うと、茅野はしれっとした顔でソファーから腰を浮かせ、
「そう言えば、まだ話してなかったわね」
キッチンの方へ消えた。そして、再び戻ってきた彼女の手の中にある物を見た時、西木の顔は大きく引き攣る。
それは、ぱんぱんに膨らんだ大きな缶詰……かの有名なシュールストレンミングであった。
「茅野っち……それって」
「これが私の誕生日ケーキよ」
そう言って、うっとりと笑う茅野は、まさにホラーであった。
「去年はキッチンで何も考えずに缶を開けたら凄まじい惨劇になっちゃってね……。お陰で、カオルくんにトラウマを負わせてしまったんだ……」
桜井がしょんぼりとした顔をする。
茅野は遠い目をしながら、
「その我が弟は、危険を察知して朝から逃げ出したわ……冷蔵庫に入った赤玉葱とサワークリームでバレたみたい」
「薫くん……」
西木は茅野の弟の顔を思い浮かべて、心の中で十字を切った。
「……で、今年は大丈夫なんだよね?」
流石にこの二人に慣れてきたとはいえ、少し不安になった西木は念を押すように確認した。すると、桜井が親指を立てる。
「だいじょうぶ。まず、この合羽で中の腐った汁が飛び散ってかかるのを防ぎます」
「腐った汁て……」
「西木さんの分もあるわよ!」
茅野がどこからか取り出した雨合羽をフサリと広げた。
「開封は部屋に臭いが籠らないように、外で水を張ったバケツの中で行います!」
「そうすると、臭いがあまり広がらないそうよ。因みに缶はしっかり冷やして減圧してあるわ。そうすると中身が吹き出し難くなる」
そして桜井が掃き出し窓の向こうに見える裏庭に掘られた穴を指差す。
「バケツの中に吹き出た汚水は、穴に流し込んで埋めます」
「それで、あの穴を……というか、だったら雨合羽もペストマスクもまだ被る必要なくない!?」
「いやあ、雰囲気を盛りあげたくて」
「因みにこのペストマスク、私の手作りよ。西木さんのもあるわ!」
と、茅野が無邪気な笑みを浮かべながら、どこからかペストマスクを出してくる。
「……あ、ありがとう」
西木は半笑いで、そのペストマスクを受け取る。
しっかりとした作りで、クオリティの高いできだった。
そして、桜井が説明を続ける。
「去年はアルコール度数が二十度くらいの焼酎で身を洗いましたが、生臭さがけっこう残りました。なので……」
そう言って、桜井も立ちあがると冷蔵庫から、キリル文字の並んだ酒瓶を持ってきた。
「じゃーん! アルコール六十度のヴォッカを使って消毒します」
「消毒て……」
「……因みに義兄さんにねだって買ってもらいました。余った分は、返却する事になっています」
「お、おう……」
もう何も突っ込む気が起きなくなった西木であった。
「そして、後は市販のトルティーヤに、シュールストレンミングとふかしいも、サワークリームと赤玉葱を乗っけて巻いて食べます」
「このように、危機管理はしっかりと考えてあるわ」
「う、うーん……」
困り顔で首を傾げる西木。
しかし、どういう訳かだんだんと、ちょっと食べてみたくなり、しまいには実は美味しいんじゃないのか……という気さえしてきた。
「これが、飯テロか……」
「そうよ、西木さん。ようやく気分が乗ってきたようね! それなら早く着替えて頂戴」
「うん」と、何かもう破れかぶれで、雨合羽とペストマスクを装着する西木。
桜井と茅野もペストマスクを被り直す。
「まだ、速見さんがきてないようだけど……」
と、茅野が玄関の方向を見る。
すると桜井が右手をパタパタと動かし、
「立夏には去年の惨状を話した事があるからね。きっと缶を開けた頃にくると思うよ」
「そう。それは仕方がないわね。取り合えず儀式の続きを始めましょう」
「りょうかーい」
「儀式て……」
そうして三人は水を張ったバケツを持って、再び裏庭に出る。
庭の穴を囲む白装束のペストマスク集団……実に異様な光景であった。
その一人である桜井が、地面に置いたバケツの中に手を突っ込み、缶と缶切りを手に持った。
ペストマスクに覆われた茅野と西木の顔を見あげる。
「行くよ?」
二人が頷いた瞬間、缶切りの切っ先を深々と突き立てて動かし始める。
すると、次の瞬間だった。
ぼごん……。
という音と共に大きな気泡がバケツの中の水面を揺らす。少し水が飛び散る。
そして、見る見る間にバケツの水が灰色に濁り始めた。
「あまり臭いはしないわ」
「それでもちょっと、くるね。ラベンダーの臭いに混ざって。人間の死体の臭いっぽい……」
「いや、桜井ちゃんがそれ言うとリアルだから……」
「硫化水素の臭いね……」
などと、話しているうちに缶を開け終わる。
すると、その直後だった。
……ざり。
足音がした。
人の気配を感じた三人は、一斉に振り向く。
すると、そこには紙袋を両手にさげた速見立夏が青ざめた顔で、立ちすくんでいた。
「速見ちゃん」
と、西木が右手をあげると、速見は……。
「ばっ、化け物!」
と、叫び声をあげる。
このあと四人は、速見の持ってきた肉類を裏庭で焼きながら、無事に調理し終わったシュールストレンミングに舌鼓をうった。
西木にとって初めてのそれは、何かやっぱり生臭いけど妙な癖があって美味しい、しかし、進んで食べようとは思えない……という不思議な味がした。
それから夕方過ぎに、恐る恐る帰宅した茅野薫を加え、茅野循聖誕祭は夜遅くまで続いた。
(了)




