【06】後日譚
それから何事もなく夏休みになり、弁天沼の一件が解決された翌日の夕暮れ時。
そこは藤見市のひなびた繁華街から少し外れた場所にある店だった。
軒先にかけられた暖簾を潜り抜け、格子戸をガラガラと開けると香ばしい匂いが漂ってきた。
「いらっしゃーい! ……て、先輩たちじゃないですか……」
店内の奥から顔を覗かせ、店の入り口に立つ桜井、茅野姉弟の三人の顔を見てそう言ったのは、ショートカットの活発そうな女子であった。
名前を速見立夏という。
桜井と茅野の後輩である。因みに一応はオカルト研究会の部員であるのだが、彼女自身はその事を知らない。
この店は速見の生家で“焼肉はやみ”という。
焼肉から魚介、更にはお好み焼きからもんじゃまで焼き物ならば、何でも食べられる。
地元民から愛され、ネットでの評価もまずまずな老舗であった。
この日の客の入りはそこそこというところだ。もう少し経てば、もっと混みあってくるだろう。
「あー、三人なんだけど」
桜井が指を三本立てるとエプロン姿の速見が「はいはい、適当に座って」と雑な接客をする。
桜井は勝手知ったるといった調子で、空いている座敷席にあがり込む。茅野姉弟もそれに続いた。
「この店は、梨沙さんが大会の打ちあげなんかで良く連れてきてもらっていたそうよ」
姉の説明に薫は「へー」と、桜井の慣れた様子に納得する。
因みに今日の彼は緊張しており、口数がやたらと少ない。その理由は言わずもがなであろう。肉の味がわかるのかも微妙なところである。
そうこうするうちに、速見がお冷やを持ってきて、座卓中央の鉄板のコンロに火を入れた。
そして薫の顔をまじまじと見つめる。
「彼氏……な、訳がないですよね?」
「そう思った根拠をご説明願いたいのだけれど」
少しムッとした様子の茅野。
「もしかして、循先輩の噂の弟さん?」
「そうよ。私の自慢の弟は如何かしら?」
得意気な顔をする茅野。
「イケメンですねー。びっくりしました」と速見。
そして照れる薫に向かって冗談めかした調子で言った。
「どうかな? お姉さんとつき合わない? 私、可愛い年下が好みでさあ」
「あ、いや。その……あの……」
しどろもどろになる薫へと迫ろうとする速見に待ったをかけたのは、実姉であった。
「速見さん。駄目よ。私の弟を手に入れたくば、梨沙さんを倒す事ね」
「我を倒すが良い」
桜井はノリノリで胸を張る。
「そんなの絶対に無理に決まってるじゃないですかー。メスゴリラでも無理っす」
薫は慌てふためきながら、そのやり取りを見守っていた。
それから速見は注文を取ると、奥の厨房へと引っ込んでゆく。
彼女の後ろ姿を見送って、三人は雑談に興じる。
「東京X、東京X……」
「因みに梨沙さんの言う“トウキョウX”というのは、豚の品種の事だから。冗談みたいな名前だけど、バークシャー種、デュロック種、北京黒豚の三元交配から産み出された、けっこうな品質の高級お肉よ」
「名前が格好いいから、好きなんだー」
「味じゃないんですね……」
と、実弟の遠慮がちな突っ込みのあと、茅野がふと思い出したように指摘した。
「今日は梨沙さん、コンタクトじゃないのね」
この日の桜井はリムレスタイプの眼鏡をかけていた。
大抵、遊びに行くときはコンタクトを利用しているが、たまに買い置きを忘れた時に、この眼鏡をかけている。
「実はコンタクト切らしててさあ……」
案の定の理由を口にして桜井が照れた様子で頭を掻いた。
桜井の視力はかなり悪い。
中学生のあの日、杉本奈緒とすれ違ったのに気がつかなかったのは、コンタクトの買い置きを忘れていたのと、家に眼鏡を忘れてきた為であった。
「もう、仕方ないわね。帰りに薬局にでも寄る?」
「いや、いいよ。眼鏡あるし。今はコンタクトを買う金を東京Xに回すべき!」
と、両手をXの形に組み合わせた。
すると、そこへ注文が運ばれてくる。
「はい、お待ちどう様」
速見が皿を座卓に置く。
「うわーい。肉ってやっぱテンションあがるね!」
そして桜井が早々に肉を焼き始める。
その光景を遠い目で見つめ、
「……ねえ、梨沙さん」
茅野が唐突にその質問を発した。
「ん?」
「今、幸せ?」
桜井は顔をあげ、きょとんとする。
なぜ、そんな事を訊かれたのか解らなかったのだろう。
しかし、次の瞬間、何よりも本心を雄弁に物語る会心の笑顔で桜井は言った。
「当たり前だよ。だって、東京Xをこんなに食べられるだなんてさあ」
その答えを聞いて、茅野姉弟は静かに目線を合わせて満足げに頷いた。
丁度、同じ頃だった。
蕪木克巳は国道を疾走するミニバンのハンドルを握り、助手席に座る杉本奈緒の話を適当に聞き流していた。
悪友の『JKはシャワーの水滴を肌で弾く』という言葉に惹かれ、出会い系アプリで適当に引っかけた杉本と戯れで付き合ってはみたが、今はうんざりとしていた。
基本的に女子高生は収入がないので、金ばかりかかる。
蕪木は常に最低一人はATM女をキープしているので経済的な問題はない。
だが、それよりも何より、話題がことごとくつまらない。
今も「クラスの女子の誰々がむかつく」だの「教師の何々がキモい」だの「親が五月蝿い」だの、幼稚な愚痴を一方的にまくし立ててくる。
そろそろ、この女も適当な後輩に下げてやるのも悪くないかもしれない。
あえて手酷い別れ方をして、後輩に慰めさせる……いつもの手だった。
この手の馬鹿な女は、大抵それで処理できる事を蕪木はよく知っていた。
「ねえ、みーくん、聞いてるの?」
杉本が助手席で拗ねた甘えた声を出した。
蕪木はルームミラー越しに、あざといアヒル口を作る杉本を睨みつけ、不機嫌そうに言葉を返す。
「今、運転中なんだから集中させろ」
「ねぇー、久し振りに会えたのに、どうしてそういう事、言うの?」
蕪木は「ちっ」と露骨な舌打ちをする。
すると、その瞬間だった。
突然、右手が助手席の方から突き出てハンドルを切る。
慌ててブレーキを踏んだ。
「何すんだ馬鹿野郎!」
蕪木が怒声をあげた。しかし、そのハンドルを握った右手を見た途端、彼は言葉を失う。
それは杉本の物ではなかったからだ。
青白い血管の浮き出た不気味な白い手。
それはダッシュボードの中から伸びていた。
杉本も恐怖に顔を歪め、両手で口元を押さえている。
……何かがいる。
蕪木がそう思った瞬間、けたたましいクラクションと共にブレーキ音が撒き散らされる。
センターラインを乗り越えていたミニバンに大型トレーラーが迫る……。
気がつくと割れたサイドウィンドから夕日が射し込んでいた。
全身が重い。熾火のようにくすぶっていた痛みが蘇りつつある。
その恐怖を堪えながら、杉本奈緒は瞬きを繰り返し、自分の置かれた状況を把握する。
運転席から蕪木の呻き声が聞こえたが、彼が今どうなってるか解らない。まったく身動きが取れないからだ。
こうなる直前に見た白い右手……あれは、あの神社で目にした物と同じだった。
不意に蘇る二ヶ月も前の、あのファミリーレストランでのやり取り。
茅野の言葉。
そして悪魔のような赤い瞳。
……これは呪い返しなのだろうか。それとも呪いを行使した対価を支払わされているのか。
杉本には判然としない。しかし、彼女にとって、ひとつだけ確実な事があった。
「こ……こんなの、不公平だよ……」
既に気が狂いそうな程の痛みが全身を包み込み、のたうち回りたかった。
しかし、エアバッグとシートベルトのお陰で身動きが取れない。
無理に身体を捩ると激しくむせ返り、気絶寸前の痛みと共に血反吐を口から霧吹きのように噴き散らした。
凹んだドアの内側が深く脇腹にめり込んでいるのが感触で解った。
「な、何で……私だけ……こんなの……世界は間違って……おか、おかしいよ……おかしい……私、頑張ったのに……私だって必死に頑張ってたのに……」
杉本の瞳から滂沱の涙が溢れる。
確かに桜井を呪う気持ちはあった。
しかし、蝋燭を刺した鉄輪を頭に被っていなかったし白装束もまとっていない。
鏡を首にかけていなかったし、一本足の下駄も履かなかった。
そもそも丑の刻参りは七晩続けてようやく満願となる。
あの日以来、大津神社には足を運んでいない。
彼女は何もかもが中途半端なのだ。
それなのに勝手に呪いが発動して、こんなにきっちりと代償を支払わされるだなんて……杉本にはさっぱりと意味が解らなかった。
まるで、ぼったくりのようだ。
そもそも、何の罪もない凡人の代わりに苦しまなければならないのは、才能を持った恵まれた者であるべきだ。
そうでなくては、釣り合いが取れないではないか……。
しかし、世の中は彼女が考えているより、ずっと無情で甘くはなかった。
騒がしい人の声が聞こえるが、誰も助けにこない。
弱者の振りをした加害者を救う正義の味方は現れない。
「……何で桜井は右足一本だけで済んで、私だけこんな……」
結局は才能のある者だけが報われて、凡人は理不尽な運命に虐げられる。
何と残酷な世界であった事か……。
一人で勝手に世界を呪い、運命に絶望した杉本奈緒の最後の言葉は――
「……ズルいよ、私ばっかり」
その言葉と同時に猛スピードで事故現場に突っ込んできた軽トラックが助手席のドアに衝突した。
ひしゃげたドアが更に杉本の腹部を押し潰し、その臓器に致死の損傷を与えた。
こうして杉本奈緒は理不尽な世界を呪いながら息絶えた。
(了)
Next haunted point 発狂の家
 




