【05】完全犯罪
県庁所在地より発車した在来線下りの閑散とした車内だった。
窓を背に長椅子の座席に並んで座る茅野姉弟。
「……ねえ、姉さん。今日のは結局、何だったの?」
薫の知っている姉はいつも冷静沈着で、無駄な事など悪ふざけ以外にしない人間だ。
姉の目的が本当に“桜井梨沙を呪った相手を探す事”ならば、今日の杉本とのやりとりはあまりにも彼女らしくない。
単に杉本を煽って終わり……そんな風に感じた。
やはり、唯一の友人である桜井梨沙の事となると、姉も冷静ではいられないという事なのか。
薫はほんの少しだけ悪魔のような姉の人間らしさを見たような気がしてほっとする。
しかし、そんな彼の期待を裏切るかのように茅野循は邪悪な笑みを浮かべて語り始める。
「薫、貴方は“ノーシーボ効果”という言葉を知っているかしら」
「ああ。プラシーボ効果の逆だね」
「そうよ。がんと誤診を受けて死んだ健康な男や、傷をまったく負っていないのに出血性のショック死をした死刑囚……ある学者の調査によれば、心臓が弱いと日頃から思い込んでいる女性は、そうでない女性より四倍も心臓による疾患での死亡率が多いというわ。思い込みの力だけで、人は容易に死んでしまうの」
そうした思い込みによる悪い相乗効果をノーシーボと呼ぶ。
「呪いを科学的に解釈すると、このノーシーボ効果という事になるわ」
ここまでは、薫も雑学として何となくは知っていた。
しかし、だから何だというのか……彼は少しだけ思案したのちに、ようやく姉の意図に気がつく。
「まさか、姉さん……」
「あら、何かしら」
まるで無垢な少女のようにクスクスと笑う茅野循。
「もしかして、桜井さんに怨みを持っていそうな人全員に今日と同じ話をするつもりなの!?」
「流石は私の自慢の弟ね」
薫は思った。
やはり、姉は悪魔なのだと……。
茅野循は何の比喩でも冗談でもなく、桜井梨沙を呪った相手にその呪いを返そうとしていたのだ。
「姉さんは桜井さんを怨んでいそうな人に片っ端からプレッシャーをかけようと……」
それによって、“呪いが跳ね返った”と思い込ませる事により、犯人にノーシーボ効果をもたらす。
「梨沙さんを呪う為に、わざわざ面倒臭い儀式を行ったのだから、その力を強く信じているという事よ」
桜井梨沙を呪っていない者なら何も起こらないだろう。それは、桜井梨沙を呪った犯人にしか効かない猛毒だった。
「でも……だったら、本当に桜井さんの事故は呪いなんて関係なくて単なる偶然だったとしたら? 藁人形を打った人は確かに桜井さんを怨んでいたのかもしれないけど……」
何もしていない。
無実のはずだ。例え桜井梨沙の事故が呪いのせいであると思い込んでいたとてしても。
そこで茅野循が「ふっ」と鼻を鳴らし、まるで首吊り縄のような吊革を遠い眼差しで見あげた。
「それでも、私には許せない。私の大切な友人に向かって引き金をひいた愚か者に思い知らせてやりたかった。例えその銃に弾丸が込められていなくても同じ事よ。私の友人を殺そうとした事には変わりない」
「だからって……そんなの……」
言い返そうとしたが、上手い言葉が見つからない。そもそも、姉の言葉に実質的な効果があるのかも正直なところ疑わしい。
しかし、それでも何となく、ふに落ちてしまった。
茅野循は親友の為に憤っているのだと。
それは、どうしようもなく歪で純粋な怒り……実に姉らしい。
薫は姉に問う。
「じゃあ、姉さんは、本当に、今日みたいに桜井さんを怨んでいそうな人全員に会うつもりなの?」
答えは解りきっている。姉ならきっとこの復讐をやりとげる。
しかし、その予想に反して茅野循は首を横に振った。
「それは今日でおしまいね。なぜなら、藁人形を打ったのは十中八九、彼女……杉本奈緒で間違いはないからよ」
「え? 何で……」
「梨沙さんの名札が張られた人形に打たれていた五寸釘は、右足に突き刺さっていた」
「右足に?」
「そう。右足だけによ。そして彼女、こんな事を言っていたわ」
『本当に、桜井さんの怪我は呪いのせいなの? というか、呪いなんていうものが、そもそもこの世に実在するのかも怪しいと思うけど。いくら右膝を怪我したからって……やっぱり考えすぎなんじゃないかな?』
「……それが、どうしたの?」
「私は一言も五寸釘が藁人形の右足だけに突き刺さっていただなんて、言った覚えはないわ」
「ああ……」
薫にも解ってしまった。杉本の発言の不自然さが。
「……にも関わらず、まるで梨沙さんが右膝に怪我を負った事に特別な符合があるような言い方をしていた」
「確かに藁人形の右足だけに五寸釘が刺してあるのは一般的なイメージとは言えないかも。普通なら胴体とか……」
茅野は頷く。
「それか、少なくとも人形を磔にするといったら、四肢に釘を打ちつける様を想像するのが普通じゃないかしら? そうだとしても、右膝の怪我に特別な意味を見出だすのは不自然だと思うわ」
「じゃあ、少なくとも杉本さんは、桜井さんの藁人形の右膝のみに五寸釘が打たれていた事を知っている可能性が高い……」
茅野は満足げに首肯する。
「もっとも、梨沙さんの怪我が偶然などではなく、本当に呪いが原因だったとしたら私の言葉なんて、まるで意味はないわ。きっと、彼女は手痛いしっぺ返しをくらう事となる。必ずね」
そうじゃないと釣り合いが取れないもの……と、茅野は微笑む。
ノーシーボ効果は単なる保険なのだ。呪いの力が存在しなかったときの為の……。
そして、この悪魔は杉本が無惨な死を遂げたと知っても眉ひとつ動かさないのだろう。
そこで薫は背筋にうすら寒い物を感じつつ、新たな疑問を脳裏に過らせた。
「……そういえば、姉さん」
「何かしら?」
「ずっと、疑問に思っていたんだけど……」
「だから何? 言って頂戴」
「何で、僕を連れてきたの? 僕っている意味あった?」
茅野は悪戯っぽく笑う。
「それはね。貴方も容疑者だからよ。だから、杉本さんと一緒に話を聞いて欲しかったの」
「は? 僕が? 容疑者って、僕が桜井さんの藁人形を打ったと疑っていたの!? 姉さんは……」
茅野は面食らう弟に向かって頷く。
「ずっと憧れていたけれど、全然振り向いてくれない想い人を自分の物にする為に、貴方は彼女が何よりも懸命に打ち込んでいた物を取りあげようとした」
「な……姉さ……」
薫の頬が一気に紅潮する。
「……柔道さえできなくなれば、少しは自分の事も見てくれるようになるかもしれない。そう思った貴方は……」
「姉さん!」
「何よ? 動機としては妥当だわ」
「いくら姉さんでも言っていい事と悪い事が……僕が梨沙さんを……傷つける訳がないだろ!」
「ほら、そんなに興奮しないで? 周りの乗客が貴方の方を見ているわ。あと名前呼びになってる。少し落ち着いて?」
薫は周囲を見渡し、更に顔を上気させて黙り込む。
「冗談に決まってるでしょ? 本当に貴方はいつまでたっても可愛い弟ね。大好きよ」
ころころと笑う茅野。そして、こう言葉を続けた。
「本音を言えばね、一人で杉本さんに会いに行くのが怖かったのよ。だって、相手は面倒な儀式をしてまで他人を呪うような狂人なのかもしれないのに……だから、頼りになる弟についてきてもらいたかったの。梨沙さん本人に頼む訳にもいかないでしょ?」
そう言って茅野循は、まるで天使のように微笑んだ。
「薫。今日は、ありがとうね」
茅野薫は改めて思う。
だから、この姉は恐ろしいのだ、と……。




