【18】箜芒邸にて
生温い真夏の雨が世界を覆う。
蒼白い稲光が周囲の景色を染めあげる。
耳をつんざく雷鳴の向こうから、テンポの早い足音が二つ。地面を跳ねる飛沫と共にやってくる。
高原璃子と九尾天全が箜芒邸の門前に着いた頃、激しい雨が降り始めた。
二人は急いで箜芒邸の傾いだ軒下へと駆け込んだ。
高原は振り返り、ごうごうと庇から流れ落ちる雨水の滝を眺め、うっそりと顔をしかめた。
九尾が濡れたダークブロンドの髪の毛をかきあげながら言った。
「……まずは目羅博士が寝泊まりしていた離れへ行ってみましょう。それから母屋を調べて、最後に裏手の蔵。何か箜芒甕子を倒す手掛かりが見つかればよいけど」
「解ったわ」
高原は頷き、九尾の後に続いて玄関を潜る。その瞬間、三和土に蒼白い雷光が差し込む。
そこで高原が、ずっと気になっていた事を九尾の背中に向かって問うた。
「そういえば、あなたの付き人は……?」
「付き人……? ああ……」
九尾は上がり框に足を乗せながら答える。そのまま縁側へと延びた廊下への方へと向かう。高原もそれに続く。
「双子だったのよね? あの付き人と……」
「……そうね」
縁側の庇からカーテンのように雨水が流れ落ちている。荒れた庭先では、まだ青々とした芒の葉が雨粒に打たれ、暴風になびいて躍り狂っている。
ごおう……と、荒れ狂う空が鳴きながら渦を巻いていた。
「はぐれたの……?」
「そうよ。あの腐った板の橋があったでしょう?」
「ああ……」
「あそこから二人で落ちて、気がついたら、いなかったの」
「そう。……心配じゃない?」
「ええ」と九尾が前を向いたまま返事をする。その表情は窺えなかったが、彼女の声音は落ち着いていた。
妹の無事を確信しているのか……双子の間には、そうした直感じみたものがあるのだと、高原は昔聞いた話を思い出す。
ともあれ、そんな風に会話を交わすうち、二人は縁側の突き当たりにたどり着く。そこには目羅博士が、かつて寝泊まりしていた離れへと続く戸があった。
九尾は高原の方へと振り返り、無言のまま戸を開いた――
まるで手招きするように揺れ動く赤松の枝が割れ窓から突き出ている。
そこから雨水が壁伝いに垂れて床を濡らしていた。
その水溜まりは大きく広がり、室内中央の応接卓の脇で横たわった柳正克の死体まで届いていた。
九尾が短い悲鳴をあげて戸口に背を向けてしゃがみ込む。
彼女と入れ替わり、高原は戸口に立つ。
柳の首筋にはくっきりと赤い手形がついていた。目と口を一杯に開いている。
柳がここで殺されたとするなら、当然ながら殺した奴もいたという事だ。自明である。
問題はその殺しがいつ頃行われたかである。
それによって、この場所をすぐに立ち去るか、とどまるのか、今後の方針が大きく変わってくる。
高原はうずくまったままの九尾を無視して、冷静に敷居を跨いだ。
もちろん、彼女は法医学的な知識などまったく持ち合わせていない。しかし、それでも生き残る為に有益な情報を得ようと、彼女は必死であった。
まず柳の両手には乾いた血飛沫の染みが浮いている事を発見する。あのカメラで田村を殴打したときの血痕であった。
ぱっと見たところ柳に目立った外傷は首の痣以外になく、血痕は本人の物ではないと高原にも解った。
そこでふと、背後を振り向く。九尾はまだ戸口の前の廊下の隅でうずくまっていた。
霊能者の癖に死者が怖いのか……高原は呆れる。
この調子では足手まといになるだろうし、とっとと殺してしまった方がいいかもしれない。柳の腕の血痕を見るに、田村も相当な怪我を負っている事は明白である。それならば、わざわざ九尾を囮に立てなくても殺せるかもしれない……高原は、そんな事を考えながら再び死体の検分に戻る。
しかし、他には特にめぼしい情報を得る事ができなかった。
そこで、ふと窓を見あげると、相変わらず激しい雨音と雷鳴が鳴り響いていた。
高原は死体の検分を切りあげて立ちあがる。
すると、その瞬間、彼女はそれに気がつく。
柳の固く握られた右拳の中に何かがある。
高原は再びしゃがんで、彼の右拳を開いた。
すると、そこには……。
「これ……」
高原はそれを摘まみあげて立ちあがる。
それは、煙水晶のペンダントヘッド。
見覚えがあった。
そして、すぐさま、それをどこで見たのか思い出す。
それは九尾天全の胸元にさがっていた物だった。
同時に高原は気がつく。
三叉路で九尾と出会った時、彼女は箜芒邸へ向かおうとしていたのではない。
箜芒邸からやってきたところだったのだ。
うなじをくすぐる微かな息遣い。
咄嗟に振り返る。
すると、いつの間にか背後に忍び寄っていた九尾天全の親指が、高原の右眼に深々とめり込んだ。
「あ……あぁ……あああああ……」
第一間接までめり込んだ親指の先が眼窩の底を撫で回すように円を画く。
「あああああああ……」
断末魔の悲鳴をあげる高原。彼女の残る左眼が映し出した九尾天全の表情は、柔らかい笑顔だった。
九尾は……九尾に取り憑いたモノは嗤っていた。
その笑顔と嘲笑で、高原はすべてを悟った。
自分は弄ばれていたのだと……。
雷光が瞬いた。
その瞬間、高原の顔が憤怒に歪む。
「何しでぐれでんだッ! 糞アマがッ!」
腰に挟んで隠し持っていた鐫を九尾の左手の甲に突き刺した。
九尾の悲鳴と雷鳴が重なる。親指が眼窩から引き抜かれた。
高原は九尾を突き飛ばし、どうにか離れの外に出る。
貫かれた右眼を中心に、頭が燃えるように熱かった。
その癖に寒気が酷く、腸が痙攣している。
「うう……あぁ……ああ……」
黄色い胃液を吐き散らしながら、ふらふらと縁側を進む。
右手からこぼれ落ちた鐫が、転がり落ちる。高原は貫かれた眼窩に右手を当てた。血が止まらない。
その背後で苦痛に顔を歪めていた九尾の顔が突然、悪魔のような表情になる。
高原の揺れる背中を眺めながら、肩を揺らしてゲラゲラと嗤い出す。
雷鳴と激しい雨音が、その嗤い声をかき消した。
九尾は縁側に転がった鐫を拾った。
高原が、どうにか玄関へと辿り着く。すると、上がり框から足を踏み外し、三和土へと転がり落ちる。赤土の土間に四肢を突く。
すると、ちょうど、そのタイミングだった。
それは開かれた玄関の向こう。庇の下に駆け込んできたのは、
「たか……はら……さん?」
ずぶ濡れになった岡田世花であった。右足を引きずっている。どうやら橋から落下した時に捻ったようだ。
高原が顔をあげ右手を世花に向かって伸ばし、そのまま力尽きる。
「高原さんっ!」
世花が右足を引きずりながら、高原に近寄ろうとする。
すると、その直前に玄関の左側……縁側へと続く廊下の向こうから飛び出してきた影が、高原の上に覆い被さる。
それは高原の背中に腰をおろし、右手の鐫を彼女の首筋に振りおろす。
何度も振りおろす……。
その惨鼻極まる光景を雷光が蒼白く染めあげる。
「あああ……」
世花は口元を両手で押さえながら、後退りする。
そして高原の背中から腰を浮かせ、邪悪な笑みを浮かべたのは九尾天全であった。
「何て事なの……」
九尾の姿と不規則に揺らぎ続けるあの存在が重なっている。
世花が唖然とした表情で固まっていると、九尾天全が突然顔をしかめ、左手で額を抑える。
そして、まっすぐな瞳で世花を見すえる。
「逃げて……世花」
雷光が瞬く。
世花は激しく首を横に振り乱した。
「できない! そんな事……」
雷鳴が轟く。
「無理よ……そんなの……」
世花は咽び泣いた。
すると九尾天全は柔らかく微笑みながら言った。
「お願い……お姉ちゃん」
恵麻にそう呼ばれたのは、随分と久し振りの事だった。




