【13】無敵の悪霊
「お邪魔しまーす……」
玄関の内側に広がる三和土は、石灰を混ぜた赤土の古めかしい土間だった。
履き物は見当たらなかったが、片隅には棚や籠などがまだ遺されている。
その回りを囲む、あがり框からは、左手の縁側と正面への二方向に廊下が延びていた。
正面の廊下の右手に沿った壁は漆喰塗りで、所々はがれており、暗緑色の飛沫の染みがいたるところに浮いている。
その反対にはいくつかの戸口が並んでいた。廊下の奥は薄暗く見渡せない。
天井からはおびただしい量の埃と蜘蛛の巣が垂れさがっていた。
ADの青木は鞄の中からペンライトを取りだして点灯する。再び「お邪魔しまーす」と小声で囁き、あがり框に右足を乗せた。
ぎしり……と、床が軋んだ音を立てて埃が舞う。
そのまま正面の廊下を進んだ。
そうして、一番手前の戸口の前を通り過ぎようとした、瞬間だった。
人の息遣いを感じた青木は、はっとして戸口の方を向いた。
すると、そのときには既に斧が振りかぶられていた。
青木は悲鳴をあげる。彼の瞳に振りおろされる斧が映り込んだ。
刹那、鈍い音が鳴り響き、重々しい刃が青木の頭を真っ二つに叩き割った。
目蓋を痙攣させながら緩慢に瞬きを繰り返す。鮮血がしたたり落ちる。ペンライトが震える指先からこぼれ落ちて転がる。
その光の帯の中でたくさんの埃が舞っていた。
青木の悲鳴は、箜芒邸の外にまで轟いた。
門前にいた七人が、一斉に玄関口を見る。
しばしの静寂のあと、ゆっくりと中の薄暗がりから染み出るように、何者かが姿を現す。
クルーザーの運転手の田村雅一だった。
「は? 田村さん……何で、こんなところに」
ディレクターの長尾があんぐりと口を開ける。
田村は白い歯を見せながら嗤い、玄関から門の方へと歩いてくる。
その右手には、鮮血の滴る消防斧が握られていた。
それに気がついた高原璃子が掠れた悲鳴をあげて、口元を両手で覆う。
九尾が蒼白な顔をしながら世花の方へと視線を送る。
世花は唖然とした様子で首を横に振った。
田村が何かに憑依されているらしい事は明白だった。しかし、その正体が解らない。
男なのか、女なのか、年老いているのか、幼子なのか……。
まるでモザイクをかけたように、その姿は波打っており、はっきりとしない。
幼い頃から様々な霊を視てきた彼女であったが、こんな奇妙な存在を目の当たりにするのは初めての事だった。
まともにその姿を視る事すらできない。
そして、あらゆる霊的な干渉をするり……するり……と、かわすかのように、その存在は常に揺らいでいた。
まるで、つかみどころのない煙のようである。
霊の特性や、人の眼にどう映るかは、その死に方や生前の想いによって個々に異なる。
どうすれば……どんな死に方をすれば、生前にどんな人生を歩めば、こう成る事ができるというのか……。
こんなモノは祓える訳がない。
……そもそも、これは、本当に人の霊なのか……。
九尾と世花は驚愕する以外になかった。
そうこうするうちに田村が天を仰ぎ、その場にいる全てを呪うかのように嗤い始めた。
「我は箜芒甕子……全人類の普遍的無意識の底に住まう影の人格。我はそなた。そなたは我……諦めよ。愚かな道化共」
「お前……何を……何を言って……」
長尾は戦きながら、一歩……二歩と後退りした。
カメラマンの柳は、長尾の後ろで田村を撮影し続けているが、今にも恐怖で腰が砕けそうだった。
田村が消防斧を振りかぶる。
「我こそは全人類の敵……」
田村が駆け出す。
長尾、柳、そして音声の松山がガンマイクを放り投げて逃げ出す。
「ま……待ってよ、璃子ちゃーん!」
高原とマネージャーの藤沢は既に門前から続く坂道を駆け降りていた。
そして恐怖のあまり座り込もうとした世花の腕を引いたのは……。
「逃げるわよ! いったん体勢を立て直しましょう」
九尾天全であった。
彼女に腕を引かれ世花は門前から駆け出す。その直後、松山が躓いて転んだ。
その背中に弧型の凶刃が振りおろされ、深々とめり込む。
狂笑と悲鳴。
田村は松山に斧を振りおろし続ける。
九尾と世花は、有らん限りの力を振り絞り駆け出した。
九尾は世花と共に赤松の林を割って横たわる坂道をくだる。少し前方を走っていた長尾と柳の背中はもう見えない。その胸元では煙水晶のペンダントが激しく揺れていた。
「何なのっ……何なのよ、あれ……」
九尾は走りながら吐き捨てる。
どうやら彼女も、あの田村に取り憑いた存在の驚異に戦いている様だ。
世花は表情をくしゃくしゃに歪め、恐怖のあまり泣き出す。
「ごめん……ごめんなさい。ごめん……あんなの……勝てない……」
九尾はできるだけ冷静に柔らかい声音で言う。
「ほら。しっかりして。今は逃げないと……ね?」
世花が幼子の様にぐずりながら頷く。
すると曲がりくねった坂道の背後から、物凄い勢いで斧を手にした田村が駆け降りてくる。
返り血にまみれ、アドレナリンに輝く目を見開き、ほくそ笑むその姿はまさに鬼であった。
「まてッ! 道化どもがッ!」
田村の怒号が響き渡る。
やがて二人は三叉路を通り過ぎ、腐りかけた板の橋に辿り着く。
手すりのない腐りかけの細い橋……慌てていた世花は一瞬だけ躊躇する。
「早くっ!」
九尾が世花の手を引き、そのまま橋を渡る。
世花が中程まできて振り向くと、もう田村は目の前だった。
「我はまやかしの亡霊などではないぞ? 我を退ける事は、そなたらでは叶わぬ」
高々と掲げられた斧が振りおろされる。世花は九尾の背中を押して、細い橋の上で半身になってかわす。
斧の刃が橋の板にめり込み、木片が飛び散る。
同時に世花はバランスを崩し、足を踏み外す。
「きゃっ!」
鋭い悲鳴。
「世花っ!」
九尾が立ち止まり右手を伸ばす。世花がその右手を掴んだ。九尾もバランスを失う。
田村がめり込んだ斧を引き抜き振りあげる。
世花もろとも九尾が橋から落下する。
直後に振りおろされた凶刃が誰もいない虚空を斬り裂く。
そして、五メートル真下の淀んだ小川で水飛沫があがった。
「世花……世花っ!」
九尾が即座に立ちあがり、世花を抱えあげる。
「世花……しっかり!」
しかし返事はない。緊張と恐怖により意識を失ってしまったようだ。
九尾も川底の岩に頭を打ったらしく額から血を流している。それでもどうにか世花を引きずるように芦の生えた岸辺にあがった。
「よ……はな……」
そこで九尾は力尽きる。
その光景を嗜虐的な笑みを浮かべながら橋の上から見おろしていた田村が、ふと三叉路の方へ目線を向ける。
彼の瞳に映るのは道祖神の祠の裏側に広がる茂みに隠れてカメラを回す柳と、長尾の姿であった。
「何と、愚かな……」
侮蔑の表情を浮かべた田村は、意識を失った九尾と世花をいったん放置して、三叉路の方へ進路を取る。
柳と長尾が悲鳴をあげ、草むらから飛び出して逃げ出した。




