【05】修験者
華枝に再び猿轡をして寝台へと寝かせる。
死んだように眠りこける華枝の顔を見おろしながら、平川が震える声で問うた。
「先生は、まだ、これが気の病であると?」
私は「無論」と即答する。
すると平川は納得のいかない様子で座卓の上に散らばった盛り塩を指差す。
「では、あれは何ですか? 塩の色が突然、変わったのを先生も見たでしょう?」
私は淡々と彼の疑問に答えた。
「あれも不思議な事ではありません」
そう言って、開かれていた窓を指差す。
平川が首を傾げた。私は話を続ける。
「あの瞬間、格子に貼られた札や十字架が震えたでしょう? そして塩の山が何かに吹き飛ばされたように崩れた」
「ええ。あれこそ悪霊の妖術ではないですか……」
「あれは、あの窓から吹き込んだ突風のせいですよ」
「突風、ですか」
何処か納得のいかない様子の平川を放置して私は話を進める。
「その突風で鉄分を多く含んだ塵が運ばれて来たのです。その鉄分が盛り塩に付着して酸化した。何て事はない。単なる化学反応です」
「では偶然という事ですか? あの箜芒甕子が現れるのと同時に、そんな都合よく風が吹いたと?」
平川はまだ納得していないようだった。
勿論、偶然などではない。
「違いますよ、平川さん。箜芒甕子が現れるのと同時に風が吹いたのではない。風が吹いたから箜芒甕子が現れたのです」
「どういう意味です?」
平川は益々困惑を深めた様子で首を捻る。
「気候の変化という物は人の精神に多大な影響を与えるのです。貴方も曇の日や雨降りは気分が鬱ぎがちになるでしょう? 反対に晴れの日は力がみなぎってくるはずです」
「そりゃあ……まあ」と平川は、話を聞いているのかいないのか解らない様な調子の相槌を打つ。やはり納得していない様子だ。
しかし、患者の自律神経が気候の変化について行けなかった場合、それによる負担が精神疾患の症状に様々な影響を及ぼす事は事実である。
尤も、そう説明したところで、彼には理解できないだろう。
私は構わずに続けた。
「……つまり、あの突風が吹き易い気温、湿度、天気、周期……そういった物が箜芒甕子の人格が表に現れる切っ掛けとなっていたのです。思い出してください。これまで箜芒甕子の人格が現れる前には、必ずあの突風が吹いていたのではないですか?」
平川はしばし考え込んで「よく覚えてはいません」と答えた。
私は牢の入り口を潜り抜け、開いていた窓を閉める。
「ですので、今後はこの窓は閉めておいた方がよろしい。そして座敷牢内の気温を一定に保つのです。これで箜芒甕子の出現が完璧に抑えられるかどうかは、まだ何とも云えないですが、少なくとも塩の色が変化する事はなくなるでしょう」
私は未だに脅える平川を安心させる為に、ニッコリと微笑んだ。
しかし、平川は終始怪訝そうな顔で首を傾げるばかりであった。
それから晩餐の時に英司と富枝に対して、塩の変化の機巧や突風が箜芒甕子出現の切っ掛けとなっている事、更に解離による二重意識がどういった物かを話して聞かせた。
すると二人は大層感心した様子で、私の話に聞き入っていた。
話が終わると英司はいたく感激した様子で「先生、娘を頼みます……」と深々頭を下げた。
そして夕食後。
私は平川に表庭の離れへと案内された。夜鳥島に逗留中は、ここで過ごす事となる。
「必要な物があれば何でも言って欲しい」と平川に云われたので幾つか取り急ぎ必要な物を彼に頼んだ。
こうして、その日は眠りについた。
それから、しばらくは特筆すべき事は起こらなかった。
華枝と毎日面談し、まずは彼女の罪悪感を和らげる事に腐心した。随分と気が鬱いでいるようなので、抗鬱剤と夜眠れるように睡眠薬を処方した。
箜芒甕子の人格は、あれ以来現れる事はなかった。盛り塩も白いままであった。
勿論の事、他の島民が甕子憑きを発病する事もなかった。
きっと『一人が箜芒甕子に憑かれている間は他の者が憑かれる事はない』という法則が、島民の無意識下に刷り込まれている為であろう。
そして嬉しい事に、私に対して懐疑的だった者達も、その考え方や態度を改めるようになっていった。
“東京からきた先生が箜芒甕子をやっつけた”
“箜芒甕子は悪霊などではなく気の病であった”
徐々に……ゆっくりと、そういった認識が島内に広まりつつあった。
平川も座敷牢では納得していない様子であったが、あれから箜芒甕子が出現していない事実を受けて、私を信じるようになっていた。
私は華枝と面談を繰り返す傍らで、論文の執筆にも勤しんだ。
別々の者が箜芒甕子という名を持つ共通の人格を有するようになる病気――私はこれを文化依存性単一人格症と名付けた。
そして、その病理が夜鳥島という文化圏に根差した風習や風土と深く関わっている事を記す。
この論文を発表すれば、きっと私は精神医学の歴史に名を残せるであろう。そんな手応えが確かにあった。
全ては順調であった。
そんなある日の事だった――
「御免」
と、箜芒邸の玄関先に立つのは白衣姿で笠を目深に被り、右手には金剛杖、首には数珠を垂らしている。
旅の修験者といった、いで立ちであった。
離れの窓から、彼の者がやってくるのを見ていた私は、興味本意で玄関へと向かい、応対に当たった平川とのやり取りの一部始終を見物していた。
平川は上がり框から三和土を見おろし、胡散臭げな顔で問う。
「何だ? こんなところに。霊場ならばこの島よりもっと北の友ヶ島にある」
すると彼の者は目深に被っていた笠の縁を上げて、真っ直ぐに平川を見据えた。
細っそりとした面差しの女である。気品と知性に満ち溢れたその目付きに、平川は若干気圧されたようであった。
女は云う。
「まさにその友ヶ島で修行中に、此方の空に嫌な雲行きを視て、やってきた次第。私の力が必要なのではないか?」
「だから、お前は何者であるか?」
平川が多少声を荒げて凄む。しかし女は平静を崩さぬままに、名乗りをあげた。
「申し遅れた。私は川村千鶴。悪霊祓いを生業としている。この島に蟠った呪い……私が解きほぐして信ぜよう」
その時、平川の背後で彼女の名前を聞いた私は、記憶の底に引っ掛かりを覚えた。
川村千鶴――その名前を私は知っている。
記憶の糸を手繰り寄せる前に、平川が川村を強引に外へと連れ出す。
「お前の力などいらん。どうせ、この島の噂を聞きつけて金を無心しようという腹だろう?」
「違う、私はそのような……」
川村は必死に否定するが、平川は聞き入れない。
「悪霊の祟りなど存在しない。お前のようなインチキ霊媒などお呼びでないわ!」
川村がすがりつくような目線を私に向けた。
しかし、私は目を逸らす。
川村は右腕を掴まれ、開かれたままだった玄関から庇の下へ。瞬く間に門の方へ引きずられてゆく。
「今日の宿なら清竜寺の住職に頼め。そして明日の朝九時頃にくる連絡船で島からとっとと出ていけ!」
結局、川村は追い返されてしまった。
川村の姿が見えなくなるまで門前で仁王立ちしていた平川は玄関まで戻ってくると、うって変わった笑顔でこう言った。
「偶にくるんですよ。ああいった輩が金をせびりに」
「はあ……」
と、私は生返事をするしかなかった。
そんな一件があり、その日の夜であった。
就寝する前に、私は川村千鶴という名前を何処で聞いたのか、ようやく思い出した。




