【01】精神病院にて
戦時中の事だ。
窓の外に満開の庭木の桜を見たような気がするから、季節は春先だったように記憶している。
兎も角、岡山にある精神病院に勤めていた頃、私はその話を聞いた。
それは箜芒誠司との面談の際の、彼のこんな質問が切っ掛けであった。
「目羅博士、人の精神の専門家である君に是非とも聞きたいのだが」
誠司と私は学生の頃に知り合った。
学校は違うが共通の知り合いを介して仲よくなり、下宿先も近かった事から、以降は竹馬の友として学生時代を謳歌する。
卒業後、誠司は南米の巴奈馬で通訳の仕事に就く為に日本を発った。以降は疎遠となる。
そんな彼が交換船により帰国したのは凡そ二年前の事だった。
当時の彼は神経症を酷く拗らせており、この病院へと入院する運びとなる。そうして私との再会を果たしたという訳であった。
ここに来た当初の彼は、まるで別人のように窶れていた。
しかし懸命の治療の甲斐もあり、その病状は徐々に回復へと向かう。
本日もベッドの縁に腰をかけて向き合う彼の顔色は、頗る良好であった。
私は、その誠司の言葉に胸を張って返事をした。
「何でも訊いてくれたまえ」
すると誠司は少しばつが悪そうに口を開く。
「所謂、憑き物について君は学術的にどういった解釈をつける?」
「憑き物というと?」
「突然、人が別人のようになって喋りだすアレの事だ。獣のように四つん這いになったりもする」
私は眉をひそめた。
ここに来た当初の誠司は、常に亡霊に脅えていた。耳元で誰かの囁く声が聞こえるのだという。無論、彼の妄想である。
私は投薬と面談を繰り返し、その幻影をどうにか彼の脳髄から追い払おうとしていた。そして、経過は前述の通り良好のはずだった。
しかし、このような言葉を吐くという事は、また病気が振り返したやも知れぬ――と、懸念を抱いた私は、慎重に言葉を選んだ。
「迷信だよ。複雑な人の心が作りあげたまやかしだ」
「その辺りの事について、是非ともご教授願いたいのだが……」
私は門外漢の彼にも解りやすいように話を頭の中で咀嚼する。そして語り始める。
「憑き物とは、二重意識の事だろう。その病理は歇私的里の研究の中で生まれた“解離”と呼ばれる概念で全ての説明がつくのだ」
誠司はポカンとした表情で「解離」という言葉を鸚鵡返しにした。
私は更に話を続ける。
「“解離”というのは……そうだな。一八九六年、仏蘭西のピネー博士が著した『人格の変容』にこうある。『お互いにお互いを知らない意識が個人の中に同時に存在している状態』……この説明がいちばん解りやすい」
「つまりは、例えば太郎という人間の中に太郎の他にも次郎という人間の意識が入っているという事なのか?」
私は頷く。
「その通り。別に次郎でなくとも狐でもよいし、豊臣秀吉でも構わない」
そこで誠司は少し考え込み首を捻る。
「だから、その次郎というもう一つの意識が死者の霊魂や物の怪という事ではないのか? もしも、そうでないならば、何だと云うのだ……その次郎や狐や豊臣秀吉は何処から沸いてくる?」
「それこそ、人の精神の面白いところだ。先程の例えで云うのならば、それは太郎の脳髄から生まれたという事になる」
「人の脳髄がもう一つの意識を産み出すというのか」
誠司は随分と驚いた様子であった。そして続け様、私に問うてきた。
「何故そんな事が起こりうるのだ?」
「簡単な話だ。それは精神の逃避なのだよ。箜芒君」
私はなるべく専門的な用語を使わず、かいつまんで語る。
「例えば辛い事や嫌な事を人は忘れようとするだろう?」
「まあ……そうだな」
誠司が顎に手を当てて考え込む。私はその思考を遮るように話を続けた。
「忘却は精神における安全弁なのだ。そうしないと人の心は簡単に壊れてしまう」
「なるほど。その安全弁が何らかの理由で上手く働かなかった者が狂人となるのだな?」
「その通り。しかし、あまりにも辛く、そして忘れ難い程、精神に深く刻まれるような出来事が起こると、人はこう考えて自分を誤魔化そうとする事がある」
「それは、いったい」と、相槌を打つ誠司に向かって私は述べた。
「辛い目にあったのは自分ではない……と」
誠司は得心した様子で頷き、目を見開く。彼自身、そうした精神的作用に心当たりがあるのかもしれない。
ともあれ、私は話をまとめにかかった。
「……そうなると、脳髄は自分ではない誰かを作り出し、その辛い体験を、自分ではない誰かの記憶とするのだ。その精神的作用の延長によって“自分ではない誰かの記憶”が人格を持つようになる。それが、先程の例えでいう次郎なのだよ」
これは私の自論を交えた仮説であり、解離の名づけ親であるジャネや前述のピネーの見解などとは異なる部分もある。
そもそも今の精神医学において主流となっているのはフロイトの学説で、彼は解離という概念については否定的だ。
しかし、それでも誠司は「ほう」と感心した様子であった。
そして「……では、その憑き物というのは、人の脳髄が生み出した幻であり、決して祟りの類いではないというのだな?」などと、自棄にしつこく確認してくる。
「だから、そうだと云っている……」
私が苦笑すると、誠司は、ほっとした様子で「……では“箜芒甕子”も人の脳髄が生み出したまやかしという訳だ」などと云う。
箜芒甕子。
最初にそれを耳にした時、人の名前であるという事がピンとこなかった。
しかし、何とおぞましい響きであっただろうか……。
似非神秘主義者ならば、それは不吉な予兆であるなどと宣った事であろう。
後から思い返せば、これも無意識からの啓示であったのかもしれない。
兎も角、私がポカンとした顔をしていると、誠司は嬉しそうに語り始めた。
「俺の郷里の事は話したか?」
「箜芒君の郷里、確か瀬戸内海の……」
私が記憶を探るより早く「ああ」と誠司は頷いた。
「夜鳥島だ」
夜鳥島……和歌山と徳島の間。紀伊水道の北東に浮かぶ周囲二里程の孤島。
その島に住まうのは壇之浦から落ち延びた平家の末裔だとも、弾圧を逃れた吉利支丹の子孫だとも、山陰から流れてきた淫祠邪教の徒であるとも云われているが真偽の程は定かではない。
「夜鳥島には昔から箜芒甕子の祟りがある」
その誠司の声音には、明らかな恐怖の感情が宿っている様に聞こえた。




