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【00】lntroduction


 明治二十二年。

 板の間、畳の間、土間、洋間……。

 その屋敷のありとあらゆる場所に(むくろ)が転がっていた。

 青ざめ、血を流し、ひれ伏した無数に散らばるそれらは、もう二度と動く事はない。

 そのうちの一つの硝子のような瞳に蝿が止まったのと同時だった。

 奥座敷から、高嗤(たかわら)いが鳴り響く。

 夜陰を照らす行灯(あんどん)の炎が、じり……と、揺らめいた。

「……黄泉から返り(まが)つ神となったのか」

 そう言って、男は床の間に飾られた白木の刀を手に取った。

 歳は四十過ぎ。身なりのよい和装の彼と対峙するは、襦袢姿(じゅばんすがた)の女だった。

 乱れて頬に張りついた黒髪。はだけた胸元。袖や裾は生き血をたっぷりと吸い、どす黒く染まっていた。

 女は肩を揺らし(わら)い声をあげている。

 それを()めつけながら、男は歯噛みする。

「よくも娘を……この化け物めが」

 その言葉に、(わら)い声がぴたりと止まった。女の表情が真顔になる。

 数秒の沈黙のあと、盛大にまた嗤い出す。

「何がおかしいッ!」

 男は怒鳴り声をあげた。すると女は口元を抑え嗤いを堪える。

「娘? 娘だと? 我も箜芒(くのぎ)の娘ぞ?」

 しゃがれた声。

 目の前から聞こえるのに、遥か地獄の底より響き渡ってくるかのような……。

 その声を耳にしただけで男は、(きも)を潰されたかのような思いがして顔をしかめた。

「きっ、貴様など……貴様など……知らぬッ!」

 男は白木の鞘を勢い良く抜き捨て、脇構えで踏み込む。切っ先を畳にこするように振り、逆袈裟(さかげさ)に女を鋭く斬りあげた。

 血飛沫が花吹雪く。

 障子を濡らし、天井にまで舞い散る。

 行灯の炎が、じゅう……と音を立てて消えた。

 しかし……。

「恐れ(おのの)け、道化よ……」

 女はたたらを踏みこそしたものの、倒れはしなかった。

 開かれた障子戸の向こう。縁側から射し込む月光が、彼女の凄絶(せいぜつ)な笑みと男の恐怖に満ちた表情を蒼々(あおあお)と照らしあげる。

 女は血を吹き出したまま、右手を伸ばした。五本の指先が男の喉を握り潰す。

「がっ……は……なせ……うぅ……」

「死ね。死んでしまえ。この島の者は全員死ね」

「照……美……」

 はぜるような、千切れるような音がして男の両足が浮いた。反対に右手の刀がごとりと畳に転がる。

 熟れた柿を思いきり踏みつけたときのような、湿った破壊音。

 女の狂笑が再び(とどろ)いた――




 一九二七年。

 岡山のある寒村の村外れであった。

 石造りの鳥居の向こう側に広がる境内には、早朝から大勢の村人が集まっていた。

 その輪の中央に佇むのは、達磨(だるま)のように丸々と肥った胡乱(うろん)な山伏であった。

 山伏はわざとらしく嘆息(たんそく)し、肩の力を抜くと、近くにいた赤鼻の荒くれた男に言った。

「あんたの娘さんを助ける事はできなかった……」

「ああ……うん」

 赤鼻の男は(ござ)からはみ出た自らの娘の手足を無感動な様子で一瞥(いちべつ)する。

 その青白い手足は、おびただしい擦り傷と蚯蚓腫(みみずば)れに被われていた。

「まあ、しょうがねえ……」 

 赤鼻の男が残念そうに鼻の下を右手の人差し指で擦る。とても娘が死んだ父親の表情には見えない。

 すると山伏は両手を広げ、緊張した様子の観衆を見渡す。胸を張って得意気に言い放つ。

「だが、この娘に取り憑いていた(くだ)の狐は我が法力の前に屈した! もう、この村に災いをもたらす事はないであろう!」

 すると、村人が「わっ!」と、湧いた。緊張気味であった表情が一斉に(ほころ)ぶ。

 その光景を少し離れた場所にあった杉の樹の下で、みすぼらしい格好の少年がじっと眺めていた。

 彼の虚ろな表情とは対照的に、その瞳に宿るのは激しい憎悪の炎であった。




 二〇一〇年七月の半ば。

 警察に捜査協力をする霊能者“狐狩り”の高野弘明(たかのこうめい)驚愕(きょうがく)していた。

 そこは紀淡海峡に浮かぶ夜鳥島の港近くであった。

 先日この島でテレビ番組の撮影クルーが、惨殺されるという事件が起こった。

 唯一の生存者の証言から、その事件が霊障である可能性が高いと判断され、高野に声が掛かる。

 彼はある浄土宗の宗派に属する高僧で、二十代の半ばから十年以上も“狐狩り”として、こういった心霊事件の捜査に当たってきた。

 今回も警察庁の担当官と和歌山県警水上警察隊数名と共に島へと捜査の為に上陸を果たしたのだが……。

「これは何なのだ……」

 トタンと木板の粗末な廃屋に取り囲まれたその広場で事は起こった。

 突然、警官の一人が銃を抜き発砲。

 前を歩く同僚の延髄(えんずい)を吹き飛ばした。

 すぐに、その警官は数人がかりで取り抑えられたものの、今度は別の警官が狂ったように嗤い出し発砲し始めた。

 現場は大混乱となる。

 スイッチを切り替えるように次から次へと、狂気と殺意は伝染し、見る見る間に警官たちは同士打ちで数を減らす。

 そして最後に残ったのは……。

「どうした? ぺてん師」

 そう言って拳銃の撃鉄(げきてつ)を起こすのは、血塗れのジャンバーを着た背の高い男であった。

 警察庁の特殊な部署に所属し“狐狩り”と連携を取ったり、ときには共に霊障の関わる案件の捜査に当たる。

 高野とも馴染みが深い。

 熊のような厳めしい容姿と、それに似つかわしくない優しげな普段の眼差しは、今はもう見る影もない。

 口の両端をいっぱいに釣りあげて、邪悪に嗤う彼は、既に悪霊の(とりこ)となっていた。

 高野は数珠(じゅず)を巻いた右手を構えて後退りする。そして、思い出す……。

 昭和二十四年。

 この島の住民が途絶えた原因となったと言われる出来事。

 発狂した島民同士が殺しあったという悪夢のような事件。

 その惨劇を引き起こしたのは、絶対に祓う事(・・・・・・)の出来ない(・・・・・)無敵の悪霊(・・・・・)だったのだという。

 その実在すら疑わしかった存在が、目の前の男に取り憑いている。

「こんなの……馬鹿げている……」

 彼岸を見透す高野の(まなこ)がとらえたその存在。

 それは経験豊富な彼でさえ、一度もお目にかかった事がない奇妙な姿をしていた。

「祓える訳がない……どうやったら、こんな……」

 高野は絶望に満ちた表情で(かぶり)を振る。

 そんな彼を悪霊が(あざけ)り嗤う。


「我は箜芒甕子(くのぎみかこ)……」


 そのあとに続く言葉と銃声が重なった――

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― 新着の感想 ―
[良い点] 箜芒甕子、九尾先生が過去に苦い経験をした時に名前が出てきた悪霊ですね。 あの九尾先生が最大の失敗をしたというくらい、強力な悪霊が出てくるのかと思うとわくわくします。 明治22年、西暦188…
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