【02】溢れる憎悪
中学生になっても、桜井梨沙の勢いは留まるところを知らなかった。
連戦連勝の負け知らず。
同じ階級の選手たちは誰もが彼女を倒す事を諦めていた。
それほど他とは実力の開きがあった。
既に県内有数のスポーツ高校に推薦入学が内定しているだとか、どこぞの大学だか実業団の関係者が彼女の家に挨拶をしにきただとか……そんな真偽不明の噂話が杉本の耳にもいくつか届いていた。
中学二年生になると、地方局の情報番組で彼女の特集が組まれた。
女子柔道期待の新星、美少女アスリートなどと持ちあげられ、未来の金メダル候補などと、うたわれていた。
その番組のインタビューの受け答えで、おつむの弱さを露呈してしまったが、逆にそれが可愛らしいと評判は上々だった。
一方の杉本奈緒は、何ひとつ変わらぬ場所にいた。
彼女も中学では柔道部に入り、打倒桜井梨沙を目標に死にもの狂いで練習を重ねた。
しかし、まったく歯が立たない。
周囲の者たちは階級の変更を杉本に勧めたが、彼女はがんとして受け入れようとしなかった。
杉本にとって、階級の変更は敵前逃亡に等しかった。
何故、自分が桜井に臆して道を譲らなければならないのか……。
しかし、いくら下手な意地を張っても、彼女は桜井に勝てなかった。
中学二年の夏の大会が終わると、不甲斐ない自分に呆れてて腐り、柔道への情熱を失う。
部活の練習へも真面目に顔を出さなくなり、三年生と顧問の教師に呼び出され、その態度を咎められた。
そんな自分が情けなくて、彼女は己に言い訳をする為に恋をした。
十四歳らしい青春を送る。
女なら部活で汗を流すより恋に生きようと。
今は柔道なんてくだらない事をやっている場合ではない……そんな風に自分へと言い聞かせた。
その相手に選ばれたのは同じクラスの男子だった。当然ながら片思いである。
ろくに話した事もなかったし、接点もあまりなかった。正直、本当に好きだったのかも怪しい。幼稚な恋とも呼べない何かだった。
クラスメイトと恋バナになり、誰か気になる人がいるのかと問われて、何となく彼の名前を口にしただけだった。
しかし、それでも彼の事を考えているときだけは、柔道から逃げた惨めな自分を忘れられた。
負け犬ではなく、恋する十四歳の乙女という何者かになれたのだから。
それは、ある日の事だった。
休み時間に教室でクラスメイトたちと談笑していると、近くで同じように友人たちと固まって余暇を過ごす彼の声が不意に耳に届いた。
「あの昨日のテレビに出てた桜井梨沙っていう子、可愛くね?」
どきり、と心臓が高鳴って息が詰まった。
その日はまさに、桜井梨沙のインタビューが放映された翌日であった。
「あー、俺も見たけど、お前、ああいうのが好みなの?」
その友人の言葉に彼は答える。
「うん。俺、ああいう子、すげータイプ」
「どこに住んでるの?」
「藤見市」
「マジで。けっこう近いじゃん」
その後も桜井梨沙の話題は続いている。
杉本には、その声が蝿の羽音のように煩わしく感じられた。
ふと気がつくと、談笑していたクラスメイトたちが、全員黙り込んで自分の顔を見つめていた。
我に返り「どうしたの?」と尋ねると、クラスメイトのひとりが不安げな顔で、こう言った。
「大丈夫? 何か凄い顔してるけど」
杉本は慌てて笑顔を作り、どうにか取りつくろった。
「……さん。杉本さん」
「あ……」
茅野に呼びかけられて、自分がアイスティーに浮かぶ氷をじっと睨みつけていた事に気がついた。
顔をあげると、茅野が静かに微笑んでいる。
「聞いてるのかしら? 私の話」
「ごめん。ちょっと、疲れていて」
笑って誤魔化し、いつの間にかカサカサに乾いていた喉をアイスティーで潤す。
「練習?」
と、茅野に訊かれ、何の事か解らず、杉本の思考が止まる。
彼女はもう柔道を完全に辞めていた。
高校に入ってからは帰宅部で、優しい彼氏もいるし、友だちも沢山いる。
毎日が楽しく、辛く厳しい柔道の練習などこれっぽっちもする必要はなくなっていた。
充実した毎日を送る女子高生。今の自分は惨めな負け犬ではない。そう胸を張って言えた。
杉本は茅野の質問に対し、言葉を濁して曖昧に頷く。そして、
「えっと、ごめん。ちょっと聞いていなかったからもう一回、お願い出来る?」
「……だから、私は梨沙さんを呪った相手を探しているの。梨沙さんが、交通事故で右膝に大怪我を負ったのは知っているわよね?」
「ああ……うん。何となく」
「あれは丑の刻参りの呪いである事は間違いないわ」
断言する茅野。ゆったりとした所作でアイス珈琲を啜る。
「……それで、杉本さんに訊きたいのだけれど」
「な、何?」
額に冷や汗が滲む。
「貴女、梨沙さんに怨みを持っている人に心当たりはないかしら?」
からん、と、グラスの中の氷が音を立てた。
「な……何で私に」
やっとの事で、それだけの言葉を絞り出した。
「以前、梨沙さんから杉本さんの話を聞いた事があるわ」
「何て?」
急に恋でもしたように胸が高鳴った。
あの桜井梨沙が自分の話を……。
しかし、次の茅野の言葉を聞いて、杉本は落胆する。
「杉本さんとは、良きライバルだったと……」
嘘だ。
「だから、梨沙さんを強く怨んでいそうな人がいたら、知りたいと思ったの。当時の柔道の大会なんかで彼女と対戦した人の中に、そういった人がいなかったか。……例えば梨沙さんの強さに嫉妬して、過剰に意識していた選手だとか。大切な試合で負けて、その勝敗に納得していなかった選手だとか……柔道家としての梨沙さんを良く知る貴女ならば、その辺りは私よりも詳しいのではないかと思って」
嘘だ……出鱈目だ。見え見えのでまかせだ。
杉本には良く解っていた。
桜井梨沙は自分の事など歯牙にもかけていない事を……。
「ねえ、杉本さん」
「な、何を……」
「知ってる? 天才を殺すのは、いつだって取るに足らない凡人なの。あのジョン・レノンを殺したのだって、くだらない妄想にとらわれた、つまらない男だった」
……私がその取るに足らない凡人であるというのか、と怒鳴りつけそうになるのを杉本は必死に堪える。
「あの頃の梨沙さんは天才だった。誰も彼女に勝てなかった。それをくだらない誰かが、台無しにしたの」
少しだけ赤みがかった色素の薄い茅野の瞳。
その心の中まで見透かされそうな視線に曝され、杉本は……。
「……ねえ、杉本さん」
「だから、何?」
この茅野循という女は――
「梨沙さんを呪った犯人探しに協力して欲しいの」
間違いなく自分の事を疑っている。杉本は、そう確信した。
中学二年生のその日。
杉本奈緒は学校が終わると在来線に乗り、藤見市に向かっていた。
目的はもちろん桜井梨沙に会う為だ。彼女に会って直接言ってやりたかった。
なぜ、自分のような何の罪もない弱者が、苦しまなければならないのか。
才能があるというだけで他者の尊厳を踏みにじる権利などない。お前の存在そのものが世の中の全てを馬鹿にしている……杉本は面と向かって桜井にそう言うつもりだった。
藤見市に着いた頃には、既に夕暮れ時が近かった。
もうすぐで部活が終わる時間だ。今から彼女の通っていた中学まで行けば丁度良いのかもしれない。
杉本は駅からスマホを頼りに目的地を目指す。
そして、寂れた駅前から地下通路を通って駅裏へ。ひなびた住宅街の路地をいくつか曲がったときだった。
正面の十字路の向こうから、おそろいのジャージを着た女子の集団が歩いてくるのが見えた。
その集団は十字路の手前で立ち止まると、手を振りながら別れの挨拶を交わし合う。
そして、その中のひとりが杉本の方へ向かってやってくる。他の者たちは右側の路地へと姿を消した。
自分の方へと近づいてくる女子の顔を見て、杉本は大きく目を見開き立ち止まる。
桜井梨沙だ。
何と話しかけよう……杉本の脳裏に様々な言葉が浮かんでは消える。
『こんにちは』
『久し振り』
『ちょっと良いかしら』
どれも違うような気がした。突然の緊張で喉が詰まり、上手く喋れそうにない。
そうこうするうちに桜井梨沙は、どんどんと近づいてくる。
もうお互いの顔が見えるくらいの距離だ。
杉本は結局、自分からは話かけない事にした。
何度も試合中に鼻先の距離で顔をつき合わせている。向こうも気がつくはず……。
そもそも、自分から話しかけるのは、桜井梨沙に負けを認めたような気がして嫌だった。
自分が桜井にわざわざ会いにきたのではない。桜井に断罪と懺悔の機会を与えようとしているのはこちらなのだ。
そう考えた杉本は、桜井を見つめたまま、その場でじっと待った。
しかし――杉本は絶句する。
桜井梨沙はすれ違い様に彼女の顔を一瞥しただけで、通り過ぎて行ったのだ。
虫けらのように取るに足らない存在……そう言われたような気がした。
切なくて、情けなくて、声が出なかった。
自分のすべてを否定されたような気がした。
杉本は歩き去る桜井梨沙の後ろ姿を見送りながら、いつの間にか泣いていた。