【11】最後の番人
女王蜂はその年に生まれた新女王のみが越冬し、次の年の春に新しい巣を作る。古い巣は使わない。
同じ場所に新たな巣を作る事は珍しくはないが、この屋根裏の雀蜂は守護者として毎年この場所に巣を作らされていたのだろう。
そして、恐らくコルクのありかは空になった雀蜂の巣の中……茅野はそう考えた。
慎重な足取りで雀蜂の巣がぶらさがった梁へと近づく。
すると、四つ並んだ巣の右端。それは最も古い物だった。
その巣の下部の入り口から、一匹の蛇がぽとりと落ちた。
赤銅と黒の鱗。
太い胴体。
三角の頭。
それは蝮。
あの飯匙倩よりも強い毒性を持つ蛇である。
悪霊が雀蜂を操って、使われなくなった古い巣の外殻の中にある巣盤の一部を除去させた。そのスペースを寝床にさせられていたのだ。
この蝮こそが、コルクを守る冬季の番人であった。
熊と同じように無理やり冬眠から起こされた蝮は、苛立ちを表明するように、しゃあっ、と顎を大きく開き鎌首をもたげる。
そして、茅野の足首に飛びかかった。
誰も、こんなところに蛇がいるなどとは思わないだろう。しかも十二月もそろそろ終わろうかという時期である。普通だったら蛇は冬眠している。
完全なる不意打ち……になるはずだった。
しかし、茅野循はまったく油断していなかった。
茅野は、ひょん、と後方に飛び退き、即座に蝮の頭を軽く踏みつける。
そのままリュックからダクトテープを取り出して、蝮の首根っこを捕まえる。目隠しするように、顎にテープを巻きつけ口が開かないようにする。
「変温動物の癖によく動けるわね。これも悪霊の力かしら?」
茅野はそう独り言ちると溜め息を一つ。
「まあ良いわ。ちょうどいいから使わせてもらうとして……」
ビニール袋を取り出して、その中に蝮を入れる。
再び茅野は雀蜂の巣に近づく。もちろん、油断など欠片もしていない。
茅野は蝮の入っていた雀蜂の巣の中に思いきり殺虫剤を噴霧して、特に何も起こらない事を確認する。
それから折り畳みナイフを取り出し、用心深い手つきで雀蜂の巣を梁からもぎ落とし、破壊する。
すると巣の中にコルクを発見する。
「あったわ……」
そうして茅野はコルクを摘まみあげ、側面に焼印で刻まれたヘブライ語を読みあげる。
「バアルベヘマ……成る程。ぴったりな名前ね」
茅野は悪魔のように微笑むと桜井のコートを持って天井裏から降りた。
「うう……寒い」
桜井と月輪熊はじっと睨みあっていた。
すると頭上の背後から声がした。
「梨沙さん」
桜井は振り向く。すると、自分が屋根裏で脱いだダッフルコートがふさりと降ってきた。
彼女はそれを受け取る。
「循、コルクは……?」
その問いに茅野は、右手の親指と人差し指で摘まんだそれを掲げて見せる。
「この通り、ちゃんと見つけたわ。悪霊の名前も解った」
熊は動かない。
このまま桜井の前から熊を動かさなければ、おいそれと瓶へ封印させられる事はない……悪霊は茅野の指摘通りの戦術を取っているらしい。
「そこで、これよ……」
そう言って茅野は、足元に置いたリュックからビニール袋に入った何かを取り出してベランダから落とした。
桜井はそれを受け取る。
「おわっ……何か動いてる!」
「それは蝮ね。ちゃんと口は縛ってあるから、安心して頂戴」
「マムシ……これが、どうかしたの?」
「熊は蛇が物凄く苦手なのよ。時には腰を抜かす程にね。もしも正気に戻った熊が梨沙さんに襲いかかってきたら、それを投げつけてやりなさい。確実とは言えないけれど、頭のまともな熊なら、それで退いてくれるはずよ」
「ふうん……解った」
桜井は蝮の首根っこを捕まえて、鼻先を近づけ「よろしく頼む」と言った。
すると、その瞬間だった。
月輪熊は腰を浮かせ悔しげに嘶くと、一目散に駆け出した。
「のわっ! どうした!?」
驚く桜井をよそに熊は花壇の脇を通り抜け、ベランダ横の外壁をガリガリと爪を立てて登る。
どうやら桜井を人質に取っても無駄だと悟り、強行策に出る事にしたらしい。
熊はベランダより少し高い位置から壁を蹴って飛び降りる。
そして庭先に向かって、バルコニーの左側に爪を立ててぶらさがった。
既に茅野はベランダの床に置いた瓶に向かって、右手に持ったレコーダーを再生していた。
熊が手すりをよじ登ろうとする。
しかし、茅野は悪魔のように微笑む。
「梨沙さん、頭上に注意して!」
そして右足を振りあげて踏み倒すように手すりを思い切り蹴った。
既に一度、熊は同じ方法でこのベランダに登っている上、桜井梨沙がぶらさがろうとして更なる負荷が、かかった状態だった。
そこへとどめと言わんばかりの茅野の蹴り。
耐えきれるはずもなかった。
手すりは軋んだ破壊音を立てて外側へと花開くように倒れる。
熊が、ごう……と鳴いた。そのまま花壇の脇の地面に落下する。
大きく鈍い音と共に軽い地響きがした。
「おわっ……おっと!」
桜井が頭上に落ちてきた手すりの残骸を花壇の中でかわす。
ちょうど、その頃、祈りの言葉が終わった。
間髪入れずに茅野は瓶に向かって悪霊の名前を叫んだ。
すると突然、風が吹き、異国の冒涜的な囁きがどこからか聞こえてきた。
そして、いつの間にか空だった瓶が、赤い液体に満たされている。しかし、それは赤ワインのような透明感はなく、血の如き薄暗い赤だった。
その液体が波打ち、ぐるぐると瓶の中で渦を巻き始める。
風が強まり、瓶がぐらぐらと揺れる。このままでは倒れて、こぼれてしまうだろう。
「ユダヤの悪霊は往生際が悪いわね……」
茅野はそう言って瓶を拾いあげて、コルクを入り口にねじ込んだ。
すると、風はぴたりと止み、瓶の中で暴れていた液体も凪の海面のように静まり返る。
そこで地面に落ちたままへばっていた熊が起きあがり、花壇の中で身構える桜井を一瞥した。
「な、何だ。やるのか、このやろう……」
その何とも迫力にかける言葉を聞き入れた訳ではないのであろうが、熊は、ばつの悪そうな顔でうつむいて、トテトテと桜井のいる花壇から離れてゆく。
そして、一度だけ振り返ると、敷地を取り囲む椎や水楢の森の中へと姿を消した。
その背中を見送った後、桜井はコートを羽織りながらベランダを見あげた。
「いやあ、今回はかなりエキサイティングだったよね」
茅野がベランダを見おろして微笑む。
「そうね。よいお土産もできたし……」
そう言って、右手に持ったワインボトルを、ちゃぽん、と揺らした。




