【14】釣り餌
扉を開けると、狭い三和土があった。
いくつかの男物の靴が並べられている中で、不気味な赤いハイヒールがぽつんと置いてある。
玄関から延びた長い廊下の先にリビングがあり、突き当たりの掃き出し窓の隣の壁にギターケースが立てかけてある。
物音はまったくしない。不気味なほど静まり返っている。
「静かだな……」
江島が靴を脱ごうとすると、その背中へ茅野が声をかける。
「ちょっと、待って。……いざという時の為に、靴は履いていた方がいいわ。これを……」
それは三十センチくらいはありそうな、ビニール袋だった。
「何だ、これは?」
江島は怪訝な顔で、それを受け取る。
「土足用のビニール靴下よ。靴の上から履くの。……はい、梨沙さんも」
「何で……」こんな物を持っているんだ……と言葉を続けようとした江島であったが、もう突っ込み疲れたので素直にビニール靴下を着用する。茅野と桜井も手早くビニール靴下を履いた。
「行くぞ……」
そうして三人が三和土からあがった直後だった。
「うぎゃあああああああっ!!」
男の悲鳴が轟いた。
江島が叫ぶ。
「どうした! 大丈夫か!!」
「だじゅげでぇえええ……!!」
再び男の絶叫。
リビングの右奥にある襖の向こうから聞こえてくる。
「今行くぞ!」
江島が駆け出す。
「ちょっ……」
桜井が後を追う。茅野がその後に続く。
江島が襖を開けた。
すると、正面に見える押入れの襖が開いており、その中に半裸の血塗れの男が踞っていた。
江島の背後から部屋の中を覗いた桜井と茅野が声をあげる。
「宇佐美の偽者で間違いないね」
「そのようね……」
ずいぶんとやつれており、ぱっと見は別人のようであったが、確かにあの似顔絵の人物であった。
宇佐美孝司、改め水城真澄は青ざめた唇を震わせて一言……。
「ご、ごめん。す、すまない……」
と、言った。
江島が和室の中に足を踏み入れる。
「いや。良い。それより、どうした?」
「ちょっと、待って! もう少し慎重に……」
「お前らが落ち着き過ぎだ!」
茅野が止めるのも聞かずに、江島は押入れに近づいてゆく。
「誰にやられたんだ?」
水城がもう一度「ごめんなさい……」と咽び泣きながら言った。
「どうした? 酷いな。その傷」
江島が腰を折り曲げ、水城に右手を伸ばす。
すると、水城は彼を見あげながら言った。
「すまない……」
「いいんだ。立てるか?」
「……悲鳴をあげろって言われたんだ」
「は?」
その瞬間だった。
「危ない! おじさん!」
桜井が叫ぶ。江島が振り向いた。
襖の横で息を殺していた白いワンピース姿の女がゴルフクラブを振りあげて、江島に襲いかかる。
桜井が和室に踏み込む。
しかし、一歩遅かった。痛烈なスウィングを頭に食らい、額から血を飛び散らせながら、江島はバッテリの切れたロボットのように昏倒する。
女が訳の解らない奇声を放ちながら涎を撒き散らし、突っ込んでくる桜井に向かってゴルフクラブを横薙ぎに払う。
桜井はそれを潜り抜け、女の懐に入り込んだ。
「てりゃー!」
と、何とも気合いの抜けたような掛け声と共に跳びあがり、凶悪なアッパーカットを放つ。
顎を跳ねあげられた女は仰け反り、ゴルフグラブを右手から落として床にへたり込む。
項垂れたまま畳の上に沈み込んだ。
桜井はどや顔で言い放つ。
「パンチ力とは……握力×底辺×高さ÷二!」
「梨沙さん……それ、何か違うわ……」
茅野が控え目に突っ込んだ。
「まったく、うかつにも程があるよ。私立探偵なのにさ……」
桜井が腰に手を当ててぼやく。
昏倒した女を拘束しながら茅野が苦笑する。
「梨沙さん……現実の探偵は残念ながらフィクションのタフで頭の回転が早い探偵とは違うわ。人の悲鳴を聞いて、冷静な判断ができなくなるのも当然よ」
「まったくもう……」と溜め息を吐く桜井。
茅野は江島の脈を取り、呼吸を確認する。桜井にOKサインを送った。どうやら生きているらしいと知り、胸を撫でおろす桜井。
茅野が鞄から応急セットを取り出して簡単な止血を始める。
「それにしても……」
と、桜井は押入れの中でガタガタと震える水城の方に目線を向ける。そして、少し憤慨した様子で彼に問うた。
「ねえ……今度は相田先生を標的にして酷い事をしようとしてたの?」
「知らないっ! 覚えてないっ!」
頭を抱え首を横に振る水城。
「覚えてないって……先月の婚活パーティで、知り合った背の高い美人さんだよ」
「だから……知らないよっ! 覚えてない」
「だからさあ……」
と、桜井が苛立った様子で押入れの方へ詰め寄ろうとした。それを茅野が制する。
「待って。梨沙さん」
茅野は押入れの前で屈むと、身を縮こまらせて怯える水城に問う。
「相田愛依よ。貴方が先月、藤見市で行われていた婚活パーティに出席した時、貴方とカップリングが成立した女性の事よ」
「だからっ、知らないよっ!」
水城が声を張りあげる。
「確かに、俺……その婚活パーティに出ようと目をつけていたんだけど……出た記憶がないんだ……」
「どゆことなの?」
桜井は小首を傾げる。
「きっ、気がついたら、そこのイカれたヤバイ女に捕まっていて……押入れの中で……ずっと……あああああああああっ!」
虐待の恐怖が蘇ったらしい水城は、半狂乱になって叫び始めた。
「循……」
「だいたい、解ったわ」
茅野はいつも通り、そう言って結論を述べる。
「きっと、先生と出逢った宇佐美孝司は、死んだはずの本物の宇佐美孝司だったのよ」
そして、天井を見あげながら、ぐるりと回転しながら言う。
「そうなんでしょ!? 宇佐美さん!」
……何の反応もない。茅野は水城を指差す。
「もう一度、こいつに憑依して話す事はできないかしら?」
水城は怯えた表情で茅野を見あげる。
「お、お前……何を……誰に話をしているんだ……?」
茅野は無視して続ける。
「相田先生が、貴方ともう一度、話したがってるわ……」
「何の反応もないね」
桜井がポツリと言った。
「“相性”は悪い方にも変化するのかもしれないわね」
その茅野の言葉に桜井が首を傾げる。
「と、言うと……?」
「九尾先生は言っていたわよね。条件によって“相性”はよくなると」
「ああ。あたしたち……生者の行動し次第でも“相性”はよくなるとか何とか」
「……ならば、悪い方向にも“相性”は変化するのではないかしら?」
「ああ……」
と、桜井が相づちを打ったところで「ううん……」と呻き声をあげて、江島が目を覚ました。
……その光景をリビングの方から、じっと覗き込む存在がいる事に、誰も気がついていなかった。




