【11】不審な男
翌日だった。
昼休みのオカ研部室で茅野が西木に問うた。
「西木さんは、如月涼という作家を知っているかしら?」
西木は弁当を食べる手を止めて、驚きに満ちた表情をする。
「どうかしたのかしら……?」
茅野が首を傾げると西木は苦笑する。
「いや……茅野っちの口からその作家の名前が出てくるとは……」
「私だって、普通の女子高生のように恋愛物のお話を楽しんだりする事もあるわ」
「嘘だね」と、茅野にほとんどノータイムで桜井が突っ込む。
「こんぷらいあんす上、詳しくは言えないんだけど、その如月涼っていう作家が今回の依頼に関係があるんだよ」
「なーんだ」
西木はケラケラと笑う。すると、茅野はあっさりと嘘を認めた。
「そうよ。嘘よ。……で、どうなのかしら?」
西木は少し考え込んでから答える。
「中学の頃、図書館で借りて読んだ事あるよ。映画を観て、それで原作が気になって……確か『桜のように散りゆく君へ』と『晴天の霹靂まであと三秒』の二冊だけだけど」
「それで、小説の内容はどうだったのかしら?」
「あー、凄いよかったよ。何て言うか……泣ける、みたいな? 何か読みやすいんだけど、深いんだよね。あと男の作家さんだって話だけど女性心理みたいのが解ってるっていうか……」
「ふうん……」
と、桜井がいつもの聞いているのかいないのかよく解らない相づちを打った。
「確かうちらが小学生の頃に、死んじゃったんだよね。でも今でもクラスに如月涼の事が好きだって子いるよ」
「根強い人気があるって事は、実力のある作家だったんだねえ」
桜井が感心した様子で頷く。
「茅野っちたちも、たまにはそういうの読んでみたら?」
その西木の言葉に茅野はクスリと微笑む。
「私は人が死んだり、酷い目にあったりする物語以外、受けつけないの……」
「あ、そうなんだ……」
そこで桜井が真顔でくびを傾げた。
「でも、その『桜のなんちゃら』みたいなやつは、ヒロインが死ぬんじゃなかったっけ? それで、主人公がサイコパスで……」
「いや、確かにヒロインは死ぬけど、何でサイコパスなのよ?」
西木は脱力して突っ込んだ。
その日の放課後だった。
相田の仕事が終わって帰宅する二十時くらいに補助錠を取りつけに向かう約束をして、桜井と茅野はいったん家に帰ると、藤見駅から電車に乗り込んで黒狛を目指していた。
三割程度の乗車率の車内。その長い座席に並んで座る二人。
「……昨日、家に帰ってから、ちょっと思いついて、ネットの登記情報提供サービスを覗いてみたの。もちろん、ソレイユ黒狛の四〇四号室の不動産登記よ」
因みに今日も茅野はスーツ姿の大人メイクである。その彼女の言葉に桜井は首を傾げる。
「ふどうさん……とうき……?」
「不動産登記というのは、不動産に関する情報……建物や土地の大きさ、利用目的、オーナーは誰かといった情報の事よ。法務局が管理しているわ」
「ふうん」
「……で、不動産登記を見たら、オーナーの名前は今川雅臣となっていたわ」
「その人があの部屋で水城真澄さんと一緒に暮らしているって事?」
桜井の言葉に茅野は首を振る。
「違うわ。どうも、あの四〇四号室は分譲賃貸で、その今川という人が貸し出している部屋らしいの」
「つまり、どゆこと?」
「そのオーナーの今川という人は、今の四〇四号室に誰が暮らしているか知っているって事よ。あの玄関にあった男物の靴の持ち主とも面識があるかもしれない」
「なるほどー」
と、桜井は膝を打つ。そして、ふと思い出したように言う。
「それにしてもさあ」
「何かしら? 藪から棒に」
「相田センセ、凄いよね。普通、家に侵入者があった翌日なんて学校を休んじゃうよ」
「そうね……」
茅野は今日の体育の授業で普段通りだった、相田の気丈な姿を思い出す。
そして桜井は腕組をしながら、しみじみと言った。
「あたしだったら、絶対に怖くて塞ぎ込んじゃうけどなあ……」
「それは嘘ね」と、茅野がほとんどノータイムで突っ込んだ。
「貴女ならいつも通り学校にきて、嬉々として私にその事を話すはずよ。まるで夢の国に行った土産話でもするかのように……」
「そだね」
あっさりと認める桜井。
「なぜ、そんな嘘を吐いたのかしら?」
「……ちょっと、か弱い女の子ぶってみました」
桜井が、ぺろりと舌を出す。
「まあ……たまにはいいんじゃないかしら」
茅野はそう言って微笑み、車窓を流れる景色に目線を移した。
電車はもうすぐで黒狛駅に到着する。
四〇四号室のオーナーである今川雅臣の自宅は、ソレイユ黒狛とは反対の北口にある古びた住宅街の直中にあった。
二人は狭い路地を歩きながら、今川宅を目指す。
「一応、事前にアポイントを取ろうと電話をかけたのだけれど、ことごとく留守番電話になってしまったわ。ソレイユ黒狛の登記をした後に、どこかへ引っ越して連絡先を変更していない……なんて事もあるかもしれない」
「ふうん。よく解らないけど。取り合えず、どういうていでいくの? 訪問販売のセールスとか?」
「ああ。そういえば、その説明がまだだったわね」
「うん」
「……いいかしら、梨沙さん。私たちは四〇四号室の真上の五〇四号室の住人よ。名前は北野」
「その設定、また使うんだ。で?」
「今回、今川さんを訪ねる目的は、四〇四号室からギターの音が響いて五月蝿い。静かにするように手紙をポストに投函したけれど現状は変わらず。業を煮やした私たち北野姉妹は……」
「姉妹なんだ」
「そうね。親子は流石に無理があるわ」
「そだね」
「……で、私たち姉妹はオーナーの今川さんに何とか注意してもらおうと苦情を言いにきた。……という、設定でお願い。後は私がそれとなく誘導して情報を引き出すわ」
「らじゃー」
と、そんな会話を交わしながら角を曲がる。
茅野が二軒先にある右側の家を指差した。
「あそこね……」
と、その直後だった。
今川宅の門の中から誰かが出てきた。
長髪で四十前ぐらいの彫りの深い顔の男だ。
その人物は二人の方へと歩いてくる。
そして、すれ違った直後、桜井が声をひそめて言う。
「あいつ……昨日、センセのアパートから出る時にすれ違った人だよ」
「本当に?」
茅野の問い掛けに桜井は無言で頷く。
「偶然では……」
「ないね」
二人は立ち止まり、同時に振り向いた。
すると男も振り向いており、目線がかち合う。
次の瞬間、男が脱兎の如く駆け出す。
「梨沙さんっ!」
その言葉より先に桜井はスタートを切っていた。
「うりゃー!」
桜井が男の背中に飛びつく。喉元に右腕を回して頭をがっしりと左手で鷲掴みにする。
男は前のめりになり膝を突く。
「やめろっ! やめてくれっ! ちょっ……何この握力!?……あ……握力!! 握力!? お前の握力!!」
どうにか背中の桜井を引きはがそうとするが、そうするうちに茅野が男の前方に回り込んでいた。
そして、男の鼻先に防犯スプレーの噴霧口を突きつける。
「もうよいわ。梨沙さん」
桜井が膝を突いたままの男の背中から離れる。
茅野は悪魔のように微笑みながら、男に向かって言った。
「百万スコヴィルのペッパースプレーを食らいたくなかったら、おとなしくなさい」
男が苦虫を噛み潰したような顔で悠然と佇む茅野を見あげる。
「お前ら学生だろ? こんな事をしていいと思ってるのか? 親や学校に……」
茅野は男の言葉を遮る。
「構わないわよ? 警察でも呼ぶ? それなら貴方がすれ違い様に私の胸を揉んで逃亡しようとしたところを取り押さえた……なんて、ストーリーは如何かしら?」
「あたしの胸にしようよ。多分そっちの方が変態っぽい」
と、桜井が言ったところで男は悔しそうに歯噛みして「クソっ」と悪態を吐いた。
そして、茅野は勝利を確信した様子で男に向かって言う。
「貴方ね? 相田先生の部屋に盗聴器を仕掛けたのは」




