【08】賊
桜井と茅野がソレイユ黒狛での探索から引きあげ、帰路に着いた頃。
相田愛依は車のハンドルを握り、自宅を目指していた。時刻はまだ十八時三十分になったばかりだ。
高校教師という職に就く者にとって、こんなに早い時間に帰宅できるのは稀である。
しかし、この日は部活の最中に血相を抱えた父親から「母が倒れた」との電話があった。
すぐに学校を出て、母の搬送されたという県立病院へと向かうと、どうやら散歩途中に躓いて転んで、右足首を捻挫しただけらしい。
母は元気そうであったが、転倒の際に頭を打ったので、精密検査を受ける為に今晩は病院に泊まるとの事だった。
医師によれば「検査結果が出るまで何ともいえないが、大事に至る事は恐らくない」との事。
つき添いは父に任せ、とっとと病室を後にした。
例の婚活パーティの事について、根掘り葉掘り質問を受けたくなかったからだ。
飛び出してきた学校には一応連絡を入れ、そのまま直帰する事となった。
そして帰り道、夕食を買う為に自宅近くの大通り沿いにあるパチンコ屋の向かいのコンビニに寄る。
弁当やレトルトの惣菜を選んでいると、派手な格好をした男女が入店してくる。
男女は腕を組み、ぴったりと寄り添っていた。
その二人の仲睦まじい様子を見て、相田は溜め息を吐いて考える。
……いつからだっただろう。現実の恋愛に興味をなくしたのは、と。
相田は小さな頃から同年代の女子の中でもひときわ背が大きく気も強かった為に、男子からは畏怖され、冗談のネタにされるような存在だった。
相田自身もそうした周囲の反応から、自身の外見にコンプレックスを抱くようになっていった。
そのせいで、相田は時おり自分の趣味嗜好は単なる現実逃避なのでは……という疑念を抱く事があった。
アニメや漫画やゲームを好きになった明確な切っ掛けは特にある訳ではなかった。
しかし、相田は思う。
自分が作品やキャラに向ける愛情の全ては、女々しい己の劣等感に起因する暗く醜い感情なのではないかと……。
容姿のせいで、現実の恋愛ができないから二次元の妄想に逃げ込んでいるだけなのではないかと……。
胸を張って『二次元は現実の捌け口ではない』と断言したいところであったが、相田にはそれができずにいる。
そして、そんな自分を常に心の奥底で嫌悪していた。
一時期、その自己嫌悪を思い切り拗らせ過ぎて、二次元キャラと自分の恋愛を夢想する夢女子から、二次元の男性キャラ同士の恋愛を夢想する腐女子にクラスチェンジしていた事もあった程である。
自分と好きなキャラを恋愛させるのが己の劣等感の発露ならば、好きなキャラと好きなキャラ同士の恋愛を楽しめばよいのでは……という常人では到底理解不能な捻れ曲がった発想の転換であった。
このように盛大に拗らせまくった相田であったが、これまでに異性に好意を寄せられた事や恋愛経験自体がまったくなかった訳ではない。
……しかし、そういった時にいつも思うのは『なぜ、私が選ばれたのか……』であった。
その答えが納得のいく形で得られた事はない。
これまでも、そして今回も……。
つらつらと益体もない思いに浸りながら、相田は会計を済ませ、コンビニを後にした。
すると背後でカップルの笑い声が聞こえた。
まるで、自分が笑われているように感じて、相田はぎゅっと眉間にしわを寄せた。
相田の暮らすアパートは、このコンビニの近くにあった。裏手にある月極駐車場から徒歩三分くらいの場所の路地の突き当たりに所在する。
名前は“シャトー岩峰”
メゾネットタイプの棟が四つ、横に連なった古いアパートだった。
メゾネットタイプなどというと、ファミリー向けというイメージだが、四棟のうちで家族連れが暮らしているのは一棟しかいない。
家族連れの他は六十半ばの独り暮らしの女性、そして先日越してきたばかりの三十代くらいの男も独り暮しという話だ。
玄関の扉を開け電気をつける。
すると、三和土をあがってすぐにリビングが広がっており、すぐ左手には二階への階段が延びていた。
因みにキッチンや浴室、トイレなどの水回りは左奥にある。
ぱっと見は普通の部屋であったが、所々にオタ系のグッズが垣間見える。どうせ来客などいないと、どんどんその手のグッズが寝室から他の部屋に侵食を始めているのだ。
とりあえずリビングのテーブルにコンビニで買った物を置くと、二階の寝室へと向かう。
その寝室は一階とはガラリと趣を変えた、これでもかという程のオタク部屋だった。
壁を埋め尽くすポスター、タペストリー、タオルや団扇などなど……そのすべてが智也、智也、智也、智也……である。
本棚には漫画に混ざって教科書や教育関連の真面目な本が並べられているのは中々シュールな光景だった。そして作業用の机回りには画材が犇めいている。
部屋の中央にあるローテーブルにはスリープ状態になったままのノートパソコンと学校関連のプリントの束やノートなどが置かれている。
そして、テレビの下のラックにはゲーム機といくつかのゲームソフトがしまわれていた。
相田は、ひとつ溜め息をついてベッドの上に鞄を放り投げ、納戸のクローゼットを開けてコートをハンガーにかけた。
コートのポケットからスマホを取り出し、画面を見ると茅野からメッセージが届いていた。
文面は以下の通り。
『ソレイユ黒狛に行ってきました。四〇四号室には先生の言っていた女性の他にも男性が住んでいるようです。宇佐美さんかどうかは不明。そこで質問なのですが宇佐美さんはギターを弾けると言ってませんでしたか?』
相田はいったんベッドの上に腰をおろすと『そういう話は聞いていない』と返信する。
既読はついたが反応はない。
バッテリがほとんどなかったので充電プラグを差し込み、ローテーブルの上にスマホを置いた。
それから着替えなどを持って一階におりる。服を脱ぎシャワーの蛇口を捻った。
その瞬間だった。
がちゃり……と玄関の扉を開く音が聞こえてきた。
相田は目を見開いて固まる。
誰だろうか……そもそも、鍵は閉めたはずだ……そこまで考えて相田は気がつく。
これは内側から玄関の扉を開いた時の音だ。
背筋が凍えるように震え、全身から汗が吹き出す。
次の瞬間、扉がバタリと閉まる音が聞こえた。
「……何なの……いったい」
あの婚活パーティに出席してから、ろくな事がない。
……やっぱり、三次元はクソだ。
相田は目に涙を溜めながらヘナヘナと、脱衣室の床にへたり込んだ。
恐怖で動けずにいた彼女は、数分後にようやく警察へと通報した。




