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【00】心理的瑕疵


 二〇一二年。

 照りつける太陽。青々とした葉を茂らせる街路樹。その幹にとまった蝉の声……。

 何もかもが熱で歪んでしまったかのような、()だるような猛暑の夏。

 駅前から徒歩二十分程度の場所にある十三階建てのマンション『ソレイユ黒狛』

 住宅街と田んぼの間際にそびえ立つこの建物の四階だった。扉を叩く音がフロア中に鳴り響いている。 

「ちょっと! ちょっと! 開けてください! 聞こえてます?」

 蒸し暑い淀んだ空気の中に漂う生ゴミの腐ったような臭い。

 それは、その四〇四と刻印された扉板の向こうから漂ってくる。

 いくら呼びかけても、扉が開く事はない。

 二人の男が顔を見合わせて頷き合う。

 片方の男が右手に持っていた合鍵をドアノブの鍵穴に差し込む。

 解錠がなされ、扉が開く。

 その瞬間だった。

 凄まじい悪臭が二人の鼻の粘膜を侵す。

 そして羽音。膨大な数の羽音が、一斉に噴き出した。

 二人の男は悲鳴をあげながら逃げ惑う。

 気狂いのように両腕を振り回し、頭を振り乱し、膝をついて吐瀉物を撒き散らす。

 その玄関先には、グズグズに溶けた(うじ)の棲み家が横たわっていた。

 そこは阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄と化す――。





 マニキュアの塗られた指先が、掃き出し窓の遥か向こうに見える建築途中の建物を差す。

「あそこは、何を作ってるんですか?」

「ああ、あれは、大型の商業施設ですわ。来年の春先にオープンとか言ってましたが」

「へえ……」

「あれができればこの辺も便利になります」

「成る程」と頷く。

 水城真澄(みずしろますみ)が、黒狛市にあるソレイユ黒狛の四〇四号室へと引っ越してきたのは、二〇一九年の夏の終わりだった。

 分譲賃貸で敷金三万、礼金三万。賃料三万円。三LDKで、七二・四五平米。

 築三十八年とかなり古いが、破格の値段である。

 入居前に四〇四号室で顔を合わせたオーナーの今川(いまかわ)によれば、過去に持ち主が死んで、酷い有り様だったのだという。

「夏場でのぉ……発見が遅れて、凄かったらしいんですわ」

 この辺りでは、けっこう有名な話だったらしいのだが、今川がそれを知ったのは部屋を買ったあとだった。

 それは心理的瑕疵(しんりてきかし)の告知義務違反ではないか……と、水城が尋ねると今川はケラケラと笑う。

「いや、病死というのは、心理的瑕疵に当たらないそうでのぉ。告知義務はないらしいんです」

 その物件にまつわる、普通の人が嫌悪感を持つような要因……これが心理的瑕疵にあたる。

 過去に自殺や殺人事件、火事があったという事実、近くに暴力団事務所やカルト教団の施設が存在するなども、これに当たる。

 不動産屋は賃貸募集や販売する物件に、この心理的瑕疵がある場合は、顧客に告げなくてはならない。

「お祓いもして、壁から床から全部とっかえてリフォームをしたから、大丈夫だって押しきられまして……」

「そうですか……」

 水城の記憶では自殺や殺人だけではなく、病死も心理的瑕疵に当たる場合があったはずだった。

 特に発見が遅れて遺体が腐乱していた場合などは。

 彼は知らないのだ。

「……んで、しばらく我慢して住んではみたんですが、やっぱり、居心地が悪くて」

 今川は自分の肩を抱いて眉間にしわを寄せて笑う。それで他人に貸し出す事にしたのだという。

「私は、不動産屋と違って、そういう事はちゃんと入居者さんに教えますけど」

「それは、誠実ですね」

 ようするに今川は、不動産屋に丸めこまれ、ババを掴まされた。

 憐れだとは思うが、可哀想だとは思わない。水城は心の中で苦笑した。

「それじゃあ、何かあったら、ご連絡ください」

「よろしくお願いします」

 水城は、差し出された今川の右手を握った。

 その瞬間、閑散としたリビングの角で何かが揺らめいたような気配がした。




 二〇一九年の十二月の初週だった。

 無事に期末テストも終わり、冬休みまでに残された学校行事は残すところ球技大会だけとなったある日の放課後だった。

 それはいつものオカ研部室での事であった。

 平常通り桜井は、だらりとテーブルに身を投げ出し、茅野は何やらタブレットを熱心に覗き込んでいた。

 因みに例の隠首村の一件で気合いが入ったらしく、桜井の期末テストの首尾は上々であった。

 まだ返却は済んではいないが、自己採点ではギリギリ補習を免れる見込みであった。

「それにしても、九尾センセは大丈夫かなあ……」

 桜井は、ぼんやりとした目線を虚空にさ迷わせながら言った。

 このときの九尾天全は隠首村で特大の禍つ箱の封印作業に従事していた。

「終わったら連絡をくれると言っていたけれど……不安ね」

 と、茅野がタブレットに目線を落としたまま答える。

「……んで、循はさっきから何を一生懸命見ているの?」

 その桜井の問いを待ってましたと言わんばかりに、茅野は顔をあげる。

「この前、リサイクルショップでジョン・ハフ監督のアメリカンゴシックのVHSを見つけたのよ。それでビデオデッキを買おうと思って、今ネットで見ていたの」 

「ふうん……その映画って、面白いの?」

「ネットでの評価はまずまずね」

「でもネットの評価って当てにならないじゃん。この前の映画はレビューが星三つだったけどクソだったし……」

「甘いわね。梨沙さん」

 茅野は右手の人差し指を立てて横に振る。

「ホラー映画道とは数多(あまた)の地雷を踏み抜いてようやく一握りの黄金を手に入れる事ができる……そんな世界なのよ。恐れてはならない」

「辛く険しい道なんだねえ……」

 と、桜井が言うと、室内にノックの音が響き渡る。

 二人同時に「はい」と返事をすると、戸の向こうから意外な人物の声がした。

「今、ちょっと、いいか……?」

 それはバスケ部顧問にして“鋼鉄の処女”と呼ばれ、生徒に恐れられる鬼教師、相田愛依の声であった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 茅野さんの語るホラー映画道、まさしくその通りで感銘を受けました。 私はゾンビ映画とサメ映画と巨大生物パニック映画が好きなのですが、本当に地雷原でタップダンスを踊るかのようなスリルがあります…
[一言] サメ映画道に通じる何かを感じるw
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