【10】扉の向こう
かつて丸々と肥った鯉が何匹も泳いでいた庭池は渇れ、むき出しの池底にはコールタールのような泥がへばりついていた。
はなれへと近づくにつれて、呪いの濃度がどんどんと濃くなる。
九尾は顔をしかめながら、ゆっくりと歩みを進めた。桜井と茅野も彼女に歩調を合わせる。
もう正直、九尾は逃げ出して帰りたかった。そうでなくとも一回、出直すべきだろう。それほど、危険な状況である。
しかし、ここまできたからには、はなれの秘密の扉を開けて、地下室がどうなっているのか確認しておきたかった。
九尾の顔色は青ざめ、脂汗が額にはにじんでいる。
それでも、こんな恐ろしい呪いを放置する訳にはいかないという使命感で、どうにか足を動かし続け庭先から縁側へと土足であがる。
その端から延びる、かろうじて形を残していた渡り廊下を進み、はなれの入り口の前に辿り着いた。
「それじゃあ、開けるよ?」
茅野と九尾の了承を待って、桜井が煮しめた牛蒡のような色合いのはなれの戸を慎重に開けた。
三人は戸口に立って、はなれの中を覗き込む。
中はやはり異常なほど綺麗で、燭台がいくつかある他は何もない。
「取り合えず、隠し扉の鍵穴を探しましょう」
茅野の言葉に桜井と九尾が頷き、鍵穴の捜索が始まる。
隠し扉の鍵穴はあっさりと見つかった。
三人で輪になり、頭を突き合わせて、その鍵穴を見おろす。
「鍵穴はあるけど、扉はどこが開くの?」
桜井の問いに茅野が答える。
「多分、巧妙に床板の隙間と扉板の境目が同化しているのね……」
「取り合えず、中を確認しましょう」
九尾は上着のポケットから例の真鍮の鍵を取り出す。
そして、真顔で桜井と茅野に問うた。
「引き返すなら今のうちよ。この扉の向こうには、どんな地獄が待ち受けているとも限らない」
「例えば、どんな?」
桜井がいまいちピンときていないような表情で小首を傾げた。
「……そうね。例えば、呪いで命を落とした沢山の人の死体が……」
「死体なら、もう見慣れたよ」
あっさりと言ってのける桜井。
「見慣れたって……」
九尾は頭を抱える。
死体を見慣れているとはどういう事なのか。
この二人は実はどこかの紛争地域で生まれ育ったとか、そんな感じの重い設定でもあるのだろうか。
……それとも今時の女子高生にとって死体など珍しくもないのだろうか。
また女子高生というモノが彼女の中でよく解らなくなりかける。
女子高生とは人智を越えた常識の埒外に存在する何かなのか……。
「そんなバカな……」
九尾は頭を振って、己のやくたいもない考えを打ち消す。
すると、そこで桜井が、ずっと黙り込んだまま鍵穴を見つめている茅野に気がついて声をかける。
「どしたの? 循……」
茅野は視線をあげて桜井と九尾の顔を見渡して言った。
「隠し扉を開けるのは、ちょっと待って」
「へ……何で?」
きょとんとする桜井。一方の九尾は……。
「そうよね! そうそう。死体、怖いよね!」
やっと普通のリアクションを取ってくれたと、思わず感動して泣きそうになる。
しかし、茅野は極めて冷静な表情で首を横に動かす。
「この隠し扉が、禍つ箱の蓋その物である可能性はないのかしら?」
「へ?」
九尾は間抜けな表情できょとんとした後……。
「はあぁあ!?」
すっとんきょうな声を張りあげた。
茅野は九尾に確認する。
「禍つ箱は大きければ大きいほど、その力を増す。そして七合の禍つ箱……漆禍以上の大きさのサイズを作る事ができないのは、支払わなければならない呪いの代償が大き過ぎて、制作者が箱を完成させる前に死んでしまうから……だったわよね」
「ええ。そうよ」
九尾は首肯する。
「ならば、制作者が死んだ後に別の制作者が作業を引き継げば箱は無限に大きくできるのではないかしら?」
「そんな事が……」
九尾にはできない……とは言い切れなかった。
茅野は確信に満ちた表情で言う。
「作業行程を分担して、呪いの代償を分散させる事が可能なら、複数人での作業もできるのではないかしら?」
「じゃあ、消えた人たちは……」
桜井のその問いに、茅野は足元を指差して答える。
「この下で全員が禍つ箱の触媒となった。……全身丸ごとね」
「ちょっ……ちょっと、待ってよ。数寄屋邸の失踪者の数って……」
「資料によれば、三十名」
と、桜井が言った瞬間、九尾は声を張りあげる。
「待って。その三十名、全員が丸ごと触媒となった禍つ箱なんて……」
漆禍なんて物じゃない。どれだけの大きさになるというのだろうか。
「例え、それが可能だったとしても、そんな膨大な呪いを人間が制御できるはずがないわ」
「だから、制御しきれてないんじゃない? 呪いが漏れだしているんでしょ?」
「それは、そうだけど……」
桜井の突っ込みに困惑した表情を浮かべる九尾。
そして茅野が己の推理を口にする。
「恐らくこうよ。箱は恐らくひとつの大きな部屋で、儀式は全部、その中で行われた。そうすれば、儀式の最中に倒れても自分の死体も新たな触媒として活用できる」
「それは、エコだね」と桜井が笑えないジョークを真顔で飛ばした。
茅野は更に語り続ける。
「……きっと、集団失踪があった日、制作工程は箱の中を触媒で満たす段階まで進んでいた。そこで数寄屋満明や呪い師たちは限界を迎えて呪いの代償により次々と倒れていった。残り一人がどうにか、蓋を閉めて中から最後の儀式を完了させて力尽きた……そんなところだと思うわ」
それなら多すぎる呪い師の存在にも説明がつく。
数寄屋たちが消えてしまった事も納得できる。
「数寄屋や呪い師たちは全員が箱の制作者であり、箱の触媒だったって事なのね……そして、使用人たちも全員が触媒となった」
箱はどれだけ大きく、支払うべき呪いの代償が大きかろうが構わない。
どんなに確実で陰惨な死が訪れようとも、箱の製作が必ず次の者に引き継がれるのであれば……。
「私がおかしいと感じたのは、母屋に比べて、このはなれがまったく綺麗なままだという事よ」
「それが、どうしたの?」
桜井が首を傾げる。
「九尾先生は言ってたわよね? 箱の蓋を閉めた後に行われる最後の儀式は箱その物が呪いの影響を受けないようにする為だって」
「ええ。そうね……」と九尾。
「このはなれにも、その箱の呪いの影響が及ばない為の儀式が施されているのではないかしら?」
「ああ……」と九尾は納得する。
そして唇を震わせながら一言……。
「それが本当なら狂っている……」
口で言うだけなら簡単だ。
しかし、それを実際にやるとなると別問題である。
同じ目的を達成する為に死すら恐れぬ同士が何人も必要となる。
その者たちが一つになって作りあげた莫大な呪い。
それは暗黒の情熱の結晶だった。
「じゃあ結局、藤村さんがこの村に呼ばれたのって……」
場にそぐわない呑気な声で桜井が問うた。
その疑問に冷静な声音で答える茅野。
「きっと、この箱の蓋を開ける為だけに、連れてこられたのでしょうね。彼がなぜその役割に選ばれたのかは知るよしもないけれど。……そして、きっと藤村さんは、再びこの村を訪れたわけではない。後年に……恐らくは日記を書かなくなった一九八〇年以降、禍つ箱がどういう物なのか独自に調査するうち、今の私と同じ発想に至った」
「なるほどねえ」と桜井。
「勿論、これは確証のない想像だけれど、そうした可能性を否定する要因がないのであれば、この隠し扉は開けない方が無難よ」
そこで、九尾はスマホを取り出す。
もう限界だった。
「……とっ、兎に角、どっちにしろ、こんな強烈な呪い……わたし独りじゃ絶対に無理……助けを呼ばなきゃ……」
そこで桜井が悪戯っぽい笑みを浮かべて、
「ここ、スマホ使えないよ」
と言った。




