【07】いる!
二〇一九年十一月二十三日の朝だった。
既に遠くの山々は白い雪の帽子を被っていた。
陽射しはわずかにあり、天候は比較的良好だった。
しかし、その澄んだ空気には、鼻腔に突き刺さるような冷たさがあり、憂鬱な冬の香りがした。
九尾天全はルイヴィトンの旅行鞄を片手に、その温泉街から少し外れた山沿いにある、ひなびた旅館の玄関前に立っていた。
『幽玄荘』
年期の入ったその佇まいは、旅行ガイドに掲載されていたものよりも、いささか古びて見えた。
「使われていた写真が古かったのかしら……? 特におかしな気配は感じないけど」
今のところ、何も感じないが、外見だけ見るといかにも何か出そうな感じであった。
「嫌だなあ……嫌だなあ……」
これは霊能者あるあるなのだが、仕事で地方に行き、泊まった部屋が偶然“いる”場所だったりする事がある。
そうなると必然的に余計な仕事が増えて煩わしい思いをする事になってしまう。
ゆえに宿選びは慎重にならなければならないのだが……。
「もっと新しい宿にしておけばよかったかなあ……」
九尾は鬱々と顔をしかめて旅館の玄関前まで続くステップを登り、磨り硝子のはまった格子戸を開けた。
それからカウンターで宿帳を書いて、昔話の鬼婆を思わせる女将に案内され、二階にあるという山茶花の間へと向かう。
そうして階段を登り、二階のロビーに辿り着いたその時だった。
九尾は足を止めて目を見開く。
先を行く女将が振り向き、まさに幽霊でも見たような顔をする九尾に尋ねる。
「どうか、なさいましたか? お客様……」
「うぅ……いる……」
九尾は声を震わせ、その言葉を絞り出す。
彼女の視線の先には、驚愕の光景が広がっていた――
「はいっ、梨沙さん!」
「これで、百四!」
「百五!」
「はい! 循! 百六!」
「これで、新記録ね。百七!」
「おっと、百八!」
「ああ……ごめんなさい。梨沙さん」
「何の。どんまい。もう一回やる?」
「いいえ。ウォーミングアップのつもりがついつい熱くなりすぎたわ。そろそろ本題に入りましょう」
「らじゃー」
浴衣姿で卓球のラリーをする桜井梨沙と茅野循であった。
九尾が唖然としていると桜井に気づかれる。
「あれ? あそこにいるの九尾センセじゃーん」
「あら。本当。これは奇遇ね……」
二人が九尾の元に駆け寄ってくる。
「センセは旅行にきたの? 仕事?」
「ここの旅館、中々の穴場よ。浴場にサウナもあったわ。ご飯も美味しいし」
「へえ……そっ、そうなの。で、あなた方は何でこんなところに……?」
質問を返すと二人は顔を見合わせて悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「あたしらは、この近くにある隠首村っていうスポットを探索にきたんだー」
桜井のその言葉を聞いた九尾は、肩を落として盛大な溜め息を吐いた。
それは前日の十一月二十二日の事だった。
昼休みの藤見女子高校オカ研部室にて。
「じゅーんー」
炬燵で湯だった猫のようにテーブルに身を投げ出す桜井。
「何かしら?」
茅野循は、そのだらけた声に答えて小栗虫太郎の黒死館殺人事件をパタリと閉じた。
因みに彼女がこの本を読み始めるのは、余程やる事がない時である。
「もうすぐ期末テストだけど、気合いが入らないよ……どっか、テスト勉強のやる気が出るスポットはないの?」
「学問の神様である天神様の神社にでもお参りすればいいじゃない。一応あれでも日本最強の怨霊よ」
「そういうんじゃなくてさぁー、“行ったら帰ってこれない”みたいな激やば心霊スポットに行きたいよ……」
「行って帰ってこれなかったら、そもそも期末テストを受けられないじゃない」
茅野のもっともな突っ込みに、桜井はしょんぼりとして駄々をこねる。
「でも、このままじゃ、また補習になっちゃうよお……」
「補習は困るわね。冬休みは県外遠征を計画しているから」
「県外遠征!」
桜井がまるで缶詰の開ける音に反応する猫のように身を起こした。
「シンプルに勉強をしろ……と言いたいところだけど、まだテストまでもう少し時間はあるし、ここら辺で鋭気を養う為に、一発キツめの心霊スポットをキメておくのも悪くないわね」
「循……その言い方……」
桜井の突っ込みには答えずタブレットに指を走らせ、心霊スポットを探す茅野。なんやかやんやで桜井には甘いのだ。
そして……。
「あら……ここはどうかしら?」
「どれどれ……」
桜井は茅野の差し出したタブレットを覗き込む。
すると画面には、まとめサイトの見出しが表示されている。そこには、こうあった。
『神隠し!? 呪われた廃村、隠首村』
「かくれ……しゅ、むら……?」
「隠首村よ。中々、有名なスポットね」
「どんなスポットなの?」
「大量殺人があって村民が鏖しになったという噂があるけれど、それはデマね。実際は平成元年に住民が途絶えて、廃村となっただけらしいわ」
「ふうん……普通だね」
気の抜けた相づちを打つ桜井。
「ただ、昭和四十年代に、数寄屋邸という大きな屋敷で集団失踪事件が起きている。オカルトマニアの間では宇宙人による誘拐説が有力だけれど……」
「今度の相手は宇宙人か……」
と、座ったまま、虚空に向かってワンツーを打つ桜井だった。
「ちょっと遠いけれど、有名な温泉地やスキー場が近くにあって、高速バスを使えば割りと楽に行けそうよ」
「温泉……いいね」
桜井の瞳が満天の星空のように輝き始める。
「どうせ明日は勤労感謝の日で連休だし、泊まりがけで行きましょうよ。近くに温泉があるし、秋の味覚も堪能できるわ」
どうやら茅野ものってきたらしい。
「きのこの天婦羅にへぎそば……温泉にたっぷりつかった後で、フルーツ牛乳をきゅうっといっぱい」
桜井の心は既に彼方へと飛んでいた。
そして茅野が、その思いつきを口にする。
「ねえ、どうせなら、今から早退して、もう行っちゃわないかしら?」
「いいねえ。行こう! 行こう!」
「じゃあ、高速バスと宿を探すわね」
「おねがーい。よーし、楽しくなってきたあー!」
こうして二人は昼休みが終わると、茅野自作の体温計偽装装置を使い、保健室で早退の許可をもらう。一目散に家へと帰り、準備を急いで整える。
それから電車で県庁所在地へと向かい、駅近くのバスセンターから高速バスに乗り込んだのだった。




