【00】怒りの時代
一九六九年の東京新宿――。
この当時の日本の学生たちは、憤怒に取り憑かれていた。
平和を訴えながらフォークギターを掻き鳴らし、ゲバルト棒を振り回す。
机や椅子のバリケードで立てこもり、放水によって地を這う虫けらのように蹴散らされる。
飛び交うアジビラと火炎瓶。
喫茶店では喧喧囂囂の討論とジャズの音色。
自由を叫び、平等を歌い、歯車となる事を力一杯拒絶した。
理由なんて何でもよかった。
ただひたすら、怒りに身を任せ、大きな熱狂の波に乗りたかった。
そうすれば、きっと世界と繋がっていられたのだから……。
少なくとも藤村丈昭にとって、この時代の熱狂はそういう物でしかなかった。
この日も表通りでは、トラックの荷台に乗った連中がハンドマイクと拡声器を片手にがなり立てていた。
「ここに結集したぁーっ、すべてのぉーっ 学徒、労働者、諸君……」
ヘルメットにサングラスと手拭い。
アジ演説を行っている連中も、集まった聴衆も、そろいもそろって同じ格好をしている。
「米帝は今、我々の民族、文化、宗教、経済を、軍事力を盾に侵犯しようとしている。そして、残念な事に日本国政府もまた……」
きっと気持ちよいのだろう。
怒りに身を任せ、がむしゃらに振りあげた拳を叩きつける。
「中国、北朝鮮、キューバもスターリン主義に傾倒し……」
そうするだけで特別な何者かになれたような気がするから……。
そんな益体もない事を考えながら、藤村は遠ざかる演説の声を背に、裏路地にある雑居ビルの地下へと続く階段を降りる。
カウベルの音と共に潜り抜けたドアの向こうから、コルトレーンのテナーサックスが芳ばしい珈琲と煙草の香りを運んでくる。
深海のような窓のない薄暗い店内には何組かの客が密やかな声で、この国の未来を憂いていた。
藤村がきょろきょろと店内を見渡すと、長い髪を綺麗に真ん中で分けた女性が彼に向かって手を振ってきた。
彼女の名前は瀬川穂波と言った。
その彼女の肩に腕を回すのは数寄屋満明。彼は藤村や瀬川より二つ上の同じ大学の先輩である。
二人はノンセクトラジカル……つまり、無党派の学生運動家である。藤村もその仲間だった。
藤村は数寄屋と瀬川のテーブルに小走りで駆け寄り、二人の向かいのソファーに腰をかける。
「よお、藤村」
「『スワン』のマスターから数寄屋さんたちが、こっちにいるって……どうしたんすか? 今日は」
因みに『スワン』は普段、彼らが行きつけにしている喫茶店の事だ。当時のこういった喫茶店は、彼らのような学生運動家の溜まり場だったのだ。
数寄屋はほくそ笑みながら煙草をくわえる。
「ちょっと、今日はな」
そこで店員がお冷やを運んできたので珈琲を注文した。
その店員が去ったあとで、世間話の種にと話を何気なく切り出す。
「まーた、今日も、表通りでやってましたね」
すると、数寄屋が煙草をふかしながら皮肉めいた笑みを浮かべる。その歪んだ唇の間からは、シンナーのやりすぎで溶けた歯が不気味に覗いていた。
「まったく、あいつらはキャンキャン鳴くのだけはうめぇよなあ……“国家権力の走狗”とはよく言ったもんだぜ」
「あはは。確かにありゃキャンキャン吠えるだけしか脳のないワンコロですね」
藤村は膝を叩く。
「……かといって、“エセ暴力団”の連中も大概だけどな」
数寄屋がそう言うと、瀬川がしなだれかかる。
「ねえ。藤村クンにあの事を話したら?」
「おお。そうだったな……忘れていたぜ」
「え? 何です?」
「お前、今週の金曜日空いてるか?」
「え、大丈夫ですけど……」
首を傾げる藤村。
すると数寄屋は煙を吐き出しながらにやけて声を潜める。
「ちょっと、お前にも手を貸して欲しいんだが……」
「え? え? なんすか? ヤバイ話っすか?」
「まあそうだな。……ここだけの話にしておきてぇんだが、腐りきった帝国主義をぶっ倒すには、どでっけえ、一発が必要だ。違うか? どかんと、でけえ花火がよ」
「ええ。そうっすけど……」
まだ話が見えてこず、首を傾げる藤村。
「……その、でっけえ一発があるっつったらお前、どーするよ?」
「えっ、ええ……」
藤村はきょろきょろと店内を見渡してから苦笑して問う。
「“球根栽培”でもしたんすか? ヤバイっすよ……」
因みに“球根栽培”とは“爆弾を作る”の隠語である。
しかし、数寄屋は首を横に振る。
「球根なんて、チャチなシロモンじゃねえって。そんなもん爆発させたって、世の中なんも変わらねえ。ゲバ棒振り回してる猿と一緒だ」
そこで店員が藤村の珈琲を運んでくる。
数寄屋は、その店員が立ち去ったのを見計らい話を再開した。
「本物のパワーだ……。この世の全てをな」
そう言って、人差し指で煙草を挟んだ右手をすっと動かして空を切る。煙が虚空に残像のような線を描く。
「……全部まっ平らにできる程の正真正銘のスゲェ力があんだよ」
「な、何なんすか? それ……」
数寄屋がニヤリと笑って煙草をくわえた。もうもうと煙を吐き出す。
「ここではまだ言えねえよ。……で、どうなんだ? お前には、この国を変える覚悟があんのか?」
数寄屋の顔から笑みが消える。
真剣な表情だった。
いつもトロけた脳味噌で、絵に描いた餅のような大言壮語を語る彼には、似つかわしくない真剣な表情だった。
その彼の横で、まるで傾国の美女のように瀬川が微笑む。
「満明くんはぁ……藤村くんを見込んでいるんだよ?」
「そうだぜ。お前は俺より頭がよいし、案外キモも据わっている。それと何より誠実で信頼が置ける」
「そんな……」
過大評価だと思った。しかし、数寄屋は確信に満ちた瞳で藤村を見据えて言う。
「この国を……いや、世界を、お前が変えるんだ」
少し逡巡し、ちょうどよい温度に冷めた珈琲を一口飲むと、藤村は鹿爪らしく頷いた。
「ええ。俺も本気で世の中を変えたいです」
その答えを聞いて数寄屋は満足げに頷き、乱暴に煙草を揉み消す。
そして足元に置いていた紙袋から、それを取り出した。
「何すか? それ……」
数寄屋の手に握られていたのは、一辺が五センチ程の組木細工の木箱だった。
戸惑う藤村に向かって、数寄屋は質問を返した。
「これが、一点突破、全面展開の鍵……“禍つ箱”だ」
「禍つ箱……?」
聞き覚えのない言葉だった。
藤村が首を傾げていると、数寄屋はその箱の蓋を開けた。
中には何が入っているのか、藤村の角度からは窺えない。
「それ、中身、何が入ってるんすか?」
数寄屋はその質問には答えず、蓋の開いた箱を足元に置いて立ちあがる。瀬川も立ちあがった。
「もうすぐでここに、あのキャンキャンうるせえ犬供がやってくる」
「ワンちゃんたちには実験動物になってもらうんだから。きゃはっ」
「何なんすか? ちょっと、意味解らないっすけど……どこへ行くんすか?」
戸惑う藤村に数寄屋は言う。
「お前も早く行くぞ。死にたくなければな」
「え、あ……はい」
数寄屋は瀬川と連れ立って店のレジへと向かう。
藤村も珈琲を一気に飲み干す。箱の中身が気になったが……。
「おら! 早く行くぞ!?」
「あ、ハイ」
……二人の後を追った。
この少し後だった。
ジャズ喫茶『風の詩』で火災が発生した。
逃げ遅れた十六名の客と店員四名が一酸化炭素中毒で死亡する。
出火原因は厨房での火の不始末であった。警察や消防の発表では特に不審な点は見つからなかったのだという。




