【05】謎解き
二人は村瀬源時朗の私室の押し入れから天井裏に捕獲用の檻を仕掛け、玄関から堂々と村瀬宅をあとにした。
もちろん、ちゃんと施錠して、鍵はプランターの下へと戻すのを忘れなかった。
それから、てくてくと歩きながら弁天沼を目指す。
沼は集落の東端と山肌との間に広がる三日月型の森の中にあった。
森の入り口には柵が渡してあり『車両進入禁止』の札が掛かっていた。
ふたりは柵の横から回り込み、森を割って延びる砂利道を行く。
蝉時雨の向こうから時おり山鳥の鳴き声が聞こえた。
風はなく、木陰でもじっとりと生温い。そんな中を十分ほど歩いた。
すると、道の先で森が開け、弁天沼が見えてくる。広さは陸上競技のトラック程度はありそうだった。
岸辺に立つ桜井と茅野から見て、手前に浮ぶ蓮が見事な花を咲かせていた。左手には立派なお堂がある。
「あ……ザリガニだよ。ザリガニ」
桜井がそう言って、蓮の葉の隙間を指差した瞬間だった。ちょうど、その湖底から大きな気泡が浮きあがり、水面が波うつ。蓮の葉や花が静かに揺らいだ。
「うお……」
桜井が驚いて飛び退く。そして茅野の顔を見た。
「かっ、河童……?」
茅野はゆっくりと首を横に振る。
「多分、湖底から何かのガスが沸きあがっているのかもしれないわね。そのガスが湖底に沈んだ落ち葉や泥の隙間に貯まって、時おり大きな気泡となって一気に浮きあがる……」
「ふえー」
と、桜井は関心した様子で頷く。
「アイスランドのラガーフリョウト湖でも、時おり湖底から吹きあがるガスが大きな水飛沫をあげるそうよ。この湖には巨大な怪物が住んでいるという伝説があるのだけれど、それは湖底から沸きあがったガスの見間違いの可能性が高いというわ」
「じゃあ、浅田さんのおばあちゃんが見たっていうのは……」
「ええ。ラガーフリョウト湖と同じ。……見間違いでしょうね」
「ふうん。なるほど。そうだとすると、これで残る謎はペットボトルだけだね。何故、浅田さんの大伯父さんはスポーツドリンクを飲まなかったのか?」
「それも、だいたい、解っているわ」
「え……マジで?」
桜井が茅野の顔を見た。
茅野は湖面を見詰めながら語り始める。
「断っておくけど、今の浮きあがったガスとの見間違いという説や、これから話す事が真実とは限らない。そもそも確かめようがないもの。本当に浅田さんのおばあさんは、ここで河童の怨霊を見たのかもしれないし、大伯父さんは祟りで死んだのかもしれない。あの天井の足音も鼬の仕業なんかじゃないのかもしれないわ」
「うん。それぐらいはあたしにも解るよ。それでも良いから言って?」
その桜井の言葉を聞いた茅野は満足げに頷き、続きを口にする。
「この前、私、東京のあるイベントに行ったでしょ?」
「うん。お土産物の鳩サブレありがとう」
「どうも……あ、言っておくけど、コミケで同人誌を買い漁っていた訳ではないわよ? ある野外イベントに出演するアーティストが目当て。コミケはまだ二週間ぐらい先で私は別に行かないけど……」
「いや、誰に何の言い訳をしてるのさ」
桜井が呆れて笑い、茅野は「おほん」と咳払いをして誤魔化した。
「……兎に角、そのイベントでも同じ事が起こったの。後でツイッターの参加者の呟きを見て何気なく気がついたんだけど、ちゃんと水分補給用のペットボトルを持ってきたにも関わらず熱射病で倒れて医療テントに運ばれたっていう人がいたらしいの」
「ええ!! 浅田さんの大伯父さんと同じだね……で、その原因は?」
「原因はね、その倒れた人は持っていたペットボトルをカチンカチンに凍らせて保冷カバーに入れていたの。だから、飲むことができなかった」
「は?」
「きっと、保冷カバーに入れていても、すぐにある程度は溶けると勘違いしていたのね。でも実際は、外気温にもよるけれど、保冷カバーの力はかなり侮れないわ」
「じゃあ、大伯父さんも……」
茅野は頷く。
「保冷カバーをしていても、まったく飲めない訳ではない。時間をおけば少しは溶け出す。でも、その日は他にも悪い条件が重なっていた」
「悪い条件って?」
「まず、前日の夜に飲み過ぎて体調不良だった。その上で、突然の雨で散歩を取りやめた事が、心理的な枷となって大伯父さん自身に無理を強いたのではないかしら。そして、寝坊した為に日があがりきっており、いつもの散歩の時間より気温が高かった」
「つまり、大伯父さんは何時も通りの行動をとったつもりでも、熱射病を起こす条件が整えられてしまっていたって事?」
「そうよ、梨沙さん。一〇〇点満点よ」
「うわーい!」
両手を挙げて喜ぶ桜井。そして茅野は淡々と言葉を紡ぎ続ける。
「普段はわすがに溶けた分で口を湿らすくらいで、水分の補給は充分に足りていた……残りは散歩の後で少しずつ飲んでいたんでしょうね。しかし、その日は悪条件が重なって熱射病を引き起こし、水分の補給も出来ずに誰もいない場所で意識を失ってしまった。多分だけど、大伯父さんは倒れる直前に凍ったペットボトルを溶かそうと、保冷カバーを取り外したんじゃないかしら。だから発見された時には、すべて溶けていて、誰もペットボトルが凍っていた事に気がつかなかった」
「不幸な偶然だったんだね」
茅野は沈痛な面持ちで言った。
「繰り返しになるけれど、今の話が真実かどうかは解らないし、確かめようがないわ。……ただ、私は現実的な解釈が可能な物事を、わざわざ神秘的な存在のせいにするのは嫌い。そんなのは神秘への冒涜よ」
「そうだね。祟りや呪いに失礼だよ」
と、桜井は肩をすくめて小石を拾い、それを投げつけて水切りをする。
小石は水面を滑るように四回跳ねて沈む。
「……で、浅田さんには、何て報告するの? 河童の祟りは嘘でしたって言うの?」
桜井の問いに茅野は首を横に振る。
「一応、考えはあるわ。ただ、あの屋根裏に仕掛けた罠の結果が出るまで、もう少し待ちましょう」
「ああ。そうだね。本当に河童が引っかかっているかもしれないし」
茅野がクスリと笑い、弁天沼に背を向ける。
「今日のところは取り合えず帰りましょうか」
桜井も彼女に続く。
「うん。……あっ。そういえば」
「何かしら? 梨沙さん」
「尻子玉って、何なの?」
「ああ。説明するのを忘れていたわね……」
このあとの帰り道、茅野は尻子玉について、桜井にたっぷりと解説した。