【00】残虐
――一九三四年チェコスロバキア、プラハ郊外。
ある古びた家の地下室であった。
ランプの薄暗い明かりの中で、人影が怪しく揺らめく。
荒い男の息遣い。
したたる汗をぬぐった右手がナイトテーブルの上に置かれたナイフを手に取る。
その口元が、厭らしい三日月型に歪んで黄色い乱杭歯が覗く。
すると、同時に寝台の上に寝かされていた少女が「ひっ……」と息を吸い込んだ。
金髪の少女だった。
歳の頃は十代になったばかりだろうか……。
両手両足を縛られており、身動きが取れなくなっていた。
青ざめた肌は白蝋めいており、到底この世のモノとは思えない。
男は左手で、ゆっくり……ゆっくり……と少女の髪を鋤いた。
少女はガタガタと歯を打ち鳴らし、恐怖に震えるも、逃げる事は許されない。手足を頑丈な鉄の枷で拘束されているからだ。
男は舌舐めずりをする。
ほう、と恍惚な溜め息を一つ吐き、少女に向かって酷く優しい声音のドイツ語で話しかける。
少女の喉の奥から悲鳴がせりあがろうとする。その瞬間だった。
男の左手が乱暴に、少女の顎を押さえつけた。
「うーっ! うーっ!」
右手の中の煌めく刃をゆっくりと、蠢く汗まみれの喉笛に当てる。
「ひるふぇ……ひるふぇ……」
少女の碧玉のような瞳から涙が涌き出る。
刃が弾力のある少女の柔肌にめり込み、ぷつりと音を立てて切っ先が埋る。
絶叫。
男は少女の喉元を斬り裂く。
そして、噴射した血飛沫が天井のランプに飛び散り、暗い影を落とす。
男は肩を盛大に揺らしながらゲラゲラと笑った。
――現代。
二〇一三年の夏。
狂ったように鳴き続ける蝉の声。
照りつける陽射し。風はなく、粘りつくような湿気がまとわりつく。
それは古めかしいアンティークの家具が並んだお洒落なリビングだった。
倖田万里江は、両手で掲げた木製のストゥールをエリの頭部に振りおろした。
がつん、という鈍い音と共に仰向けに寝ていたエリの身体が小さく跳ねて震えた。
「死ね……死んでしまえ……あなた、何で生きているのよ……?」
地獄の底から響き渡る唸り声と共に、再びエリの頭部に木製のストゥールを叩きつける。
エリの金砂のごとき髪の毛が抜け落ち、木屑が飛んだ。
「死ね……死んでしまえ……死ね! 死ね! 死ね!」
がつん……がつん……がつん……と、乾いた音が薄暗いリビングに響き渡る。
「死ね! 死ね! 死ね……動くな! 死ね!」
そうして、エリの頭部の左上半分が割れ砕け、眼窩からころりと床に眼球が転がり落ちたその時だった。
万里江は、ふと背中に視線を感じた。
ストゥールを持ったまま、ゆっくりと振り向くと、背後のカーテンの隙間……窓の向こう側から幼い少女が覗いていた。
その少女について万里江は思い出す。
……あれは、確か今年の春先に、近所の山本という老婆の家にやってきた女の子だ。
何か家庭に事情を抱えているらしい。
目が合い数秒間、時が止まる。
脅えた表情。
まるで怪物を見るかのような……。
それが万里江の癪に障った。
……自分はまともだ。どう考えても正気だ。それなのに、その目は何だ!?
万里江はストゥールを投げ捨てる。ガラリと音がした。その瞬間、カーテンの隙間の向こうから女の子の姿が消える。
「逃、げ、る、な……」
万里江はのしのしと窓に近づき、カーテンを両手ではね除けた。
すると芝生の庭先を駆ける少女の小さな背中が見えた。
万里江は窓の錠を開けて大声で叫ぶ。
「待てッ!」
少女は立ち止まり振り向く。恐怖に染めあげられた表情。鳶色の瞳は涙に濡れていた。
「そんな目で、私を見るなッ!」
更に声を張りあげる。
すると、少女は弾かれたように、再び前を向いて走り出す。すぐにその姿は見えなくなった。
蝉の声。
額から汗がしたたり落ちる……。
万里江は振り向き、リビングの床に倒れたままのエリを見つめて溜め息をひとつ。肩の力を抜く。
……見られてしまった。
しかし万里江は逃げた少女を追う事はしなかった。
「……まあいい。別にいいわ」
へらへらと笑いながら独り言ち、万里江はリビングの棚にあったスコッチの瓶とグラスを取りだし、ソファーにどかりと腰をおろした。
グラスに琥珀色の液体をそそぎ、それを一気に呷った。
灼熱が喉元を潜り抜け、胃の腑へと落ちる。
頭が、気分がすっとした。
ささくれた心が落ち着いてゆく。
強ばっていた万里江の頬が自然と弛む。
「……私が殺したのは化け物よ」
化け物……。
そう。エリは人間などではない。あれは化け物だ。
スコッチをもう一杯、呷る。
「私は、正気よ!」
ゲラゲラと彼女は笑い出す。
独りでいつまでも……。
そうして、スコッチの瓶の中身が随分と減った頃だった。
「ただいまー」
と、リビングに彼女の旦那が姿を現す。
そして、床に横たわったままのエリに気がつき、両手に持った買い物袋をどさりと床に落とした。
「エリ……」
「あら、あなた、お帰りなさい」
そう言って、赤ら顔で立ちあがり、万里江は右手のグラスのスコッチをぐいと飲み干した。
彼女の旦那は唇を戦慄かせながら問うた。
「お前が……お前が……やったのか……?」
「そうよ」
万里江は即答する。
「ああ、何て事だ……何て事を……正気じゃない。こんなの正気じゃあない……」
「五月蝿いわねッ!」
万里江は空になったグラスを投げつける。
「イカれてんのは、あんたの方でしょッ!」
そう叫んで、泣き崩れた。




