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21 最終話





 闇の中、私は一人佇む。

 足元は赤い、泥とも水とも言えない何かに覆われていた。

 右目から透明な雫が零れ落ちる。

 それは足元の不快感のせいではない。





 闇の中にぼんやりと浮かび上がる光。その中で、幸せそうに微笑みあう母子の姿。






 ベッドの上で半身を起こし、娘を抱き上げる母親。娘を見つめる母の視線は、どこまでも慈愛に満ちていた。痩せ細り、まるで貧困に喘ぐ平民のような出で立ちながら、美しい、そう感じさせる姿をしている。

 対して、全幅の信頼をのせ、大好きだという感情を隠しもしない、満面の笑みを浮かべた少女。嬉しそうに母親に抱きついているその姿は、幸せ以外のなんでもない。

 普通に考えれば、互いに愛し合う、当たり前で、幸せな親子の光景。何も知らなければ、誰もが微笑ましく思っただろう。

 だが、真実を知っている者から見ればそれは、どこまでも悲しい光景だった。








「助けてっ知らなかったのっ知らなかったのよぉおおっ」

「騙されていたんだ!」

「お願いっここから出してぇっ」

 後ろから聞こえてくる言い訳に、耳を塞ごうにも私にはできない。






 目の前の光景は代わり、幼くとも死を理解しているのだろう、少女は母親の死を嘆いている。そこにやってきた一人の使用人が嬉しそうに声を上げた。

『やったわ! やっとあの女が死んだわよ!』

 手を叩き、はしゃぎながら部屋を出て行く。その死体に縋り、泣き叫ぶ小さな子供を置き去りにして。

 誰が考えられるだろうか。

 愛する者を亡くして嘆く子の前でその死を喜び、揚句その子供を置き去りにする大人の姿を。

 正常な思考とはとても思えない。

 そもそも、こんな大恩ある相手に、彼等は何故このような態度をとれたのだ。

 知らなかった?

 騙されていた?

 それがなんの意味を成す。

 知らなくても、騙されていたのだとしても、考えればわかるはずだ。彼女が何故この家に嫁いできたのか。

 いかに金銭面で強くとも、家格差があることは誰もが分かっていたはずだ。

 飢饉のせい?

 ならば、彼女が嫁いできた後、僅か数年で持ち直した領地を見れば、彼女が何をしたのかくらい、わかってもいいはずだ。

 彼等は自ら考える事を放棄しただけ。そして起こり得る責任をも、放棄した。

 なんて無責任で愚かな者達なのだろう。

 けれども、放棄した全てはけして無くならない。そんなこともわからなくなっていたなんて……。








 死者を弔う鐘が鳴る。

 重く寂しい音。

 泣き崩れる少女の前にあるのはみすぼらしい墓石一つ。そこに眠る者の名さえ刻まれていない。

 どうみても平民の共同墓地。とても貴族の、それも公爵夫人が弔われる場所ではない。それに、葬儀もなにもなく、見送るのも子ひとり。神父さえ祈りの言葉を捧げない。

 何故だ……。

 聖職者たる彼の者までもが、死者への最低限の礼儀一つとれないなんて……。

 その墓に弔われた女性が、公爵夫人が、彼等にどれほどの恵みを与えたと思っているのだ。彼には、人として当然の感謝の念がないというのか。








「怖かったんだ……」

「嫌だったんだ……」

「またあの頃に戻りたくなかったんだ!」

 嘆く民達。

 だからなんだというのだ。

 ならば感謝の念を忘れてもいいというのか。

 ならば、尽くしてくれたただ一人の女性を見殺しにし、このような惨めな死を与えても良いというのか。

 たった五歳の少女が、愛する母親の死を嘆く暇もなく迎えられた新しい母親。そして、血の繋がらない、同じ年の義妹。いや、産まれた順でいえば、義姉、なのだろう、少女。

 彼女の世界はたった一日にして崩壊した。

 こんなむごたらしい崩壊があるだろうか。

 見ているだけの私でさえ心が痛み、涙が零れる。真っ直ぐ見ていたくないのに、何者かの意思が働き、その光景をただただ見つめているしかない。

 あの、嘆く少女の下に今すぐ駆け寄り、抱きしめたいのに……。









『これはわたくしのものよ!』

 嫌らしい笑みを浮かべながら、形見の品を奪い取る義妹。その上、平気で鞭を振るう。半分とはいえ、血の繋がった姉妹相手に。

『かしなさい。お母様が手本を見せてあげるわ。家畜を躾ける時は、こうするのよっ!』

 高々と振り上げられる鞭。

 女性とはいえ、大人が、五歳の少女に全力で振るう。そのことに、なんの違和感も覚えていない様子に吐き気がする。

 正当な理由と共に、痛みを知るために加減して振るわれるのであればそれは確かに躾かもしれない。けれども、悪いのはどう考えても彼女ではない。形見の品を無理矢理奪った義妹の方だ。自分の娘を叱るべきなのに、何故義姉の方を鞭で打つ必要がある。

 何が心優しい義妹、前妻の子も分け隔てなく接する優しい夫人だ……。

 あの時、私は彼女が両親のことを心配していると思ったが、違った。あの女は、自分を庇護するであろう存在を探していただけだ。自分がなぜ、このように恨まれているかも理解できずに。

 ただただ、醜い。

 公爵も公爵だ。

 娘が生まれてから顔を合わせたのが片手で足りる程度。あれほど公爵に、領地に尽くした彼女への仕打ち。彼女の忘れ形見ともいえる娘への仕打ち。

 悪魔の所業と言われても仕方がない。

 あんな非道な真似、どういった精神状態なら行えるというのだ。

 何が、品行方正、心優しき公爵だ……。こいつこそ、本物の自己中心的悪魔ではないか。

「黙れ黙れ黙れっ私は悪くないっ私は悪くないっ私より優れた姿を見せる方が悪いのだっ私の気分を害す者が悪いのだぁあああっ」

「わたくしは悪くないわ! だってだって、アンタのせいじゃない! わたくしがずっと不幸だったのは! わたくしが幸せになろうとして何が悪いのよぉっ」

「お前の母親のせいだ! わたくしは公爵夫人なのよっなのにお前の母親のせいでずっと日陰者で、お父様たちもわたくしをぉおおっ」

 怒り狂えど、騙された、と訴える使用人たちに取り囲まれた公爵家。




 騙した騙された、と罵り合っている姿は何とも言えないほど醜悪。

 自分たちが何をしたかも理解できていない。

 ただただ怨嗟を吐き出しているが、誰が彼等を被害者だと言うのだろう。被害者だというのなら前公爵夫人と、その娘ではないか。

 私は、私は何故こんな者達を守ろうとしていたのだ……。






「儂が何をしたっ儂に目をかけられ幸せだったろうがっ」

 自分勝手な怒声。

 少女の体を分遠慮に撫でる薄汚い男の手。

 大人ならば子供を守るべきではないのか? その大人が沢山の子供を壊していっておきながらこの国の王を名乗る。

 ああ、その罪深さがわからないのか。

 そんな男に支配された国が、まともであるわけがない。






「ああ、エトワール、お前さえいなければ、お前さえいなければ……お前のせいでわたくしはずっと比べられ続け、失望され続けていたのよ! その鬱憤をお前の子で晴らして何が悪いというよっお前が悪いのよっ」

 愚かな嫉妬心に蝕まれ、比べられ、自ら己を卑下した矮小な存在。

 その程度のちっぽけな心で、よくも国母を務めていたものだな……。国一つの前に身近な少女一人救えない女なら、比べられ、失望されても仕方がないのだと気付かないのだろうか?

 私は、何故こんな者の要請に応えて、彼等を救うべく足を運んだのだ……。







「クソがっ! 上を目指して何が悪い! そこに方法があったのだから試しただけなのにっ!」

 上を目指すのは悪くはないだろう。けれども、その方法は本当に正しい方法だったのか?

 自分さえよければ、その他の人間がいかに不幸になろうとも構わない。そうして踏みにじられた方が悪い。そんな道が許されるなら、今の状態を受け入れねばならない。

 彼女の方が君より上だった。ただ、それだけなのだから。








「知らなかったのだ! 誰も、お前でさえ私に言わなかった! それでどうやってわかれと言うのだ! だいたいお前だって私に愛される努力をしていないじゃないか! 何故私ばかりが責められるのだ! 何故私ばかりがこのようなめに遭わされるのだ!」

 王子が泣きながら訴える。

 知らないから、聞いていないから、だから、わからないのなら、婚約者の意味とはなんだろうか。

 自ら己の婚約者について知ろうとさえしなかった男が、どうして婚約者のことを責められよう。もしも彼女の状態を不審に思い、僅かでも調べる程度の情があれば、彼女がどうして誰にも救いを求められなかったのか、わからないわけがない。

 唯一、本当に唯一、婚約者を地獄から救えたただ一人が、その命を奪う罪深さを、彼は知るべきだ。







「仕事だったんだ! だから俺は悪くない! 悪いのは命じた王子だ! だから、俺は助けてくれっ」

 でっぷりと太った男が、這いつくばって泣きわめく。

 命じられたからと言って、あれほどの行いをする必要があったのか?

 ちっぽけなプライドを満たすために、そのために人一人の命を無下に扱うような仕事なら、今すぐこの世から消滅してしまえばいい。

 救われようなど、考える方が烏滸がましい。









 血の雫が、片目から落ちる。握りしめた右の拳からも。

 ぽたり、ぽたり、と落ちて、泥とも水とも言えない地面にしみこまれていく。

 自分勝手で愚かで、己の罪を理解できずに自己弁護に走り、反省も謝罪もない声に、怒りが募る。目の前が赤く染まっていく。

 私は、何故こんな者達を助けようと思ったのだろうか。

 こんな者達の為に腹に穴をあけ、片腕を失い、彼女の邪魔をしたのだろう。











 神はいない。













 神がいるのなら、何故彼らは裁かれず、何故あの母子は救われなかった。

 こんな者達を救えと言うのなら、何故あの母子は救われなかったのだろう。

 おかしいではないか。救われるべきは母子であって、彼等ではない!













 闇の中から二本の白い腕が生える。それは後ろから私にと絡みついた。

「ねぇ、私の一生は幸せでしょう?」

「……」

 闇の中、声が問う。






 振り返ってはいけない。

 聞いてはいけない。

 答えてはいけない。

 闇に囚われるから。

 そう、老師が教えてくれた闇にいざなう声。けれど、私は――。















「ねぇ、幸せでしょう?」

 子供の声で、大人の声で、問いかけながら、白い手がそっと私の顔の右側を撫でた。

 赤い光を放つ目。浮かび上がった血管と、一部皮膚が剥がれ、筋肉が盛り上がった奇妙な頬。突き出す牙と、涙と一緒に顎を伝う涎。

 人ながら、この世ならざる者へ。




















「あはっあははははっ」

 ぽん、と私の背から一人の少女が飛び降りる。

 桃色の、フリルがたっぷりついた可愛らしいドレス。肩口を少し超える程度のふわふわとした金髪には、ドレスと同じ色のリボン。少女が駆けるのに合わせてふわりふわりとおどっている。

「おかーさまー」

 あどけない少女が母を呼ぶ。

 光の中で、美しい女性が手を振っている。その隣には杖をついた老人が一人。

「私の可愛い可愛い天使。そこにいたのね」

 女は、飛びつくように抱きつく少女を抱き留め、本当に愛しそうに微笑んだ。





 ずっと、悪霊は女だと思っていた。

 そう、思わされていた。






 彼女の、大人の入れ知恵なのか、子供の残酷な悪戯心からなのか。いや、あれほど母親を愛している娘が、そんな簡単に母親を悪者にはしないだろう。だからきっと、これは、自ら望んで彼女の眷属へと成り下がった母親の入れ知恵。

 全ての悪事は大人の仕業にみせた。

 そうすることで、私のような愚か者の気を逸らした。

 母親が子を守ろうとしたのだろう。そこに、祖父が、祖父や母親を慕うものが加わった。そして私は、公爵は、まんまと騙された。

 元凶は、母親だ、と。









 大人になれず、心閉ざした少女は、幸せな世界を取り戻すために努力しただけ。子供ならではの純粋さと、残酷さで。











 子供の純粋な悪意は、やがてこの地に眠る、不遇な死を遂げた者達を揺り起こし、飲み込んだ。

 きっと、多くの者が沢山の怒りを、嘆きをぶつけただろう。けれども、純粋さが功を成したのか、それら全てを容易く飲み込んだ。そして、自分の力として取り込んでしまった。

 力を手に入れた子供は思ったことだろう。

 自分の幸せな世界を取り戻そう、自分の世界を壊した者は排除しよう、と。

 奇しくもそれは、この国を恨む者達からしても同じ願い。

 普通なら取り込まれたと言えども反発し、十二分に力を発揮できない。だが、目指す方向が同じならば――。









 考えるまでもない。

 その結果が今なのだから。

 この国に生まれ、この国で育っただけの者は憐れだっただろう。だが、彼らは知らなかった。自分たちが、屍の上に築き上げられた平和の上に胡坐をかいていることを。

 彼らが平和に生きるために、罪もなく殺された者たちがいた。

 それは確かに今となっては昔の話だろう。あえて言うなら彼らは運がなかった。

 この国に生まれたことが。

 この国に留まったことが。

 この国の頂があんな者たちだったことが。

 だから、彼らにだけは与えよう。光の道を。死者の道を。私の、人としての理性が残っている間に。

 運が悪かっただけの彼らは、どうか転生の輪に戻り、健やかなる場所で新しい生を全うしてくれ。

 




















 光の中で笑いあう一組の家族。

 彼女の造った楽園。その裏で、闇の中に放り込まれた哀れな魂たちが嘆く。己の罪を理解せず、反省せず、後悔せず、謝罪せず。

 闇の中から光の方へと、救いを求めて伸ばされる数多の手。

「……守り給え、崇め給へ、我が主を……」

 穢れた水晶を握りしめ、言葉を紡ぐ。

 暗い、闇に染まった結界が張られた。

 光の方へ伸ばしたはずの手は、阻まれ、届くことはない。

 ぽたり、と赤い雫が伝い落ちる。

「出して、出してよっ」

「ここから出してぇええええっ」

 幾多もの手が叩けども、結界が破れる事はない。

 彼等の道はここから先には、ない。

 更に後方から近づいてくる異形の者達。

 ある者は、朽ちた死体。がくがくと体を揺らしながら近づいてくる。

 ある者は、首から下が虫の姿。ずるずると這いずりながら近づいてくる。

 ある者は、姿はなく、泥とも水とも言えないその場所を撥ねさせ、近づいてくる。

「ひぃいいっ来ないでっ」

「来るなっ来るなぁあああっ」

 ああ、心地よい声。

 そう、泣くが良い。

 叫ぶが良い。

 お前たちが怖がるほどに彼らは喜び、彼女の糧となる。

 襲われ、喰われ、そしてまた、甦れ。







「うわぁああああっ」

「しねっしねぇえええっ」

 振り回される剣。

 ああ、素晴らしい。

 もっと抗え。

 抗えば抗うほどに強い力を以てお前たちをより深い闇へと招待するだろう。











 ここは閉ざされた世界。

 彼女の楽園を犯すものは許さない。

 それは、闇払い師としての最後の矜持と、彼女の眷属へと堕ちた者としての義務。

 あの楽園が、完結された幸せな世界があれば、彼女は世界を滅ぼさない。彼女は幸せな人生を歩める。

 だから、お前たちには犠牲になってもらう。

 永遠に繰り返す死と再生の中、自らの所業を振り返り、粛々と受け入れろ。世界の安寧と、彼女の幸せの為に。














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― 新着の感想 ―
[一言] 一番苦しみを必要としている公爵が何だか微妙な感じになってしまったのはちょっと残念だった。あんなに喚く元気があるんじゃお話になりませんよカテジナさん(・ω・) 精神をズタズタ引き裂いて心を壊さ…
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