17 閑話
恨んだわ――この国の全てを。
憎んだわ――この国の在り方を。
殺してやりたいと思っていたわ――だって壊すだけでは足りないんですもの。
沈んだ意識の中、微かに聞こえた声。
女の想い。
それが、理由?
いや、それだけでは、きっと足りない。
もっと、もっともっと、そう思い、手を伸ばせども意識が浮上し、欠片へとは届かない――。
「ッ」
目を覚ます。
ぐらぐらと揺れる視界。
ゆっくりと半身を起こすも、鋭い痛みを訴えた腹部に呻き、手を当て、気づく。
傷口に歪にまかれた包帯。
ちらりと当たりへと視線を巡らせる。その目が、直ぐ傍らで止まった。
肘から先、白い手が一本、宙に浮いている。
細いその手がゆっくりと離れようとした。
「待ってくれ!」
慌てて掴む。
普通なら触れる事のできない手。けれども私には、可能だ。
私は、闇払い。
幼い時分より、人ならざる者達を見、その声を聞くことができた。
その力は特別な物で、教会、と呼ばれる団体に渡せば金をもらえる。それを知った親にあっさりと売られた。
生まれは貧しく小さな農村。親は私を売った金で幾つ冬を越せただろうか。それとも、初めて見た大金に、溺れたのだろうか。
教会に売られ、教会で育った私に知る由もないし、知ろうとも思わない。私を棄てた者のことなど、考えるだけ時間の無駄だから。
一人の老師に師事し、己の力を知り、その扱い方を学んだ。その過程で、私が幼い頃から見聞きしていた者達がこの世ならざる者達だと知る。そして、この世ならざる者達は等しく在るべき場所へと還さねばならない、そう教えられた。
私の力は、そのための力だ、と。
私はこの世ならざる者達を払う力だけは、教会内でも教皇に次ぐ強い力をもっていた。けれどもそれだけ。払う力はあれども、癒す力や、導く力は並程度。優れた闇払いなら、それら全てを持ち合わせねばならなかった。この世ならざるもの全てが払わねばならぬ存在ではないのだから、と。
理解できなかった私に老師は、子が心配でこの世ならざる者となった母親は悪か、と説いた。
それは、悪ではない。
私の親はあっさりと子を売る親だったが、世の中には子を愛する親もいるのだ、と知っているから。
ではそれを問答無用で払うこの力を以て滅するのは正しい行いか、と老師に問われ、私は己の未熟さを知った。以来、修行に修行を重ね、教会内でも五本の指に入ると言われるまでに至る。
いくつもの依頼をこなし、実績も評価され、黙って立っていても依頼が舞い込んでくる多忙な日々。実力のある闇払いの中には、いつしか初心を忘れ、傲りが生まれた者もいた。
己以下の闇払い達を見下し、気に食わない依頼は蹴り、依頼者に腹を立てれば仕事を放棄し、その地域一帯に二度と他の闇払いが派遣されないよう裏から手を回す。困りに困って謝罪しに来ても一度や二度では受け入れない。
力に溺れたクズ。
彼らの姿を戒めに、老師亡き後も善良であろうと努力はしていた。それが彼等との対立を生んだのは悲しい事だが。
依頼内容を違えて伝えられたのは一度や二度ではない。そのせいで死にかけたことも。それでも救いを求める者がいる限り、私は任務へと赴いてきた。生きて帰る度、成功して戻るたび、彼らの忌々しそうな出迎えを受けながら。
だから、いつかこうなるであろうことも理解していた。
明らかに格の違う悪霊。少なくとも一人で対応するレベルではない。
品の良い笑みを浮かべ、圧倒的な力を、何をするでもなく知らしめる存在。今まで見てきたどの悪霊よりも強力な存在。
対峙した時に死を覚悟すると同時に、何としてもここで食い止めねばならない、そう強く確信した。
これは、世界を滅ぼすだろう。
今はまだ産まれたてで、この圧倒的な強さでさえ、完全なる力ではない。だからこそ、今しかない。もしもこれがその力に目覚めたら、おそらく教会の全勢力を以てしても、太刀打ちできない。そう、理解できたから。
そうは思えど、私は敗北した。
あの圧倒的な力を前に、払う力だけは傲りと言われようが自負できるものを持っていたはずなのに、赤子のように何もできなかった。
しかし最後の一瞬、私と悪霊の間に入った脆弱な存在。
細い、細すぎる、一人の少女の霊だった。
お母様、と悪霊を呼んだ。
これ以上は、と訴え、脆弱なその存在のどこにそれほどの力を隠していたのか、砕ける一瞬、目の眩むような光を発した少女。
悪霊が視界を奪われる中、私の手を引く細く、小さな手の感触。見えはしないが、覚えている。今、私が掴んでいる、この手だ。
私を殺すために振るわれた力を私の代わりに受けたその体は砕け、辛うじてこの手だけが残ってはいるものの、その力はとても希薄。いつ消えてもおかしくない。残っているこの手でさえ、透け、闇払い達でもその存在を認識できない者もいるだろう。
「助けてくれてありがとう。私のせいで、すまない……」
まだ半身を起こしただけの態勢で、小さな手の甲に、口づける。最大の感謝をのせて。慣れていないのか、白い手がふるりと小さく震えた。
ああ、どうすればいい。
身を挺して私を助けてくれた存在を、どうすれば救える?
この国を覆う呪いを撒き散らしている悪霊を母と呼んだ少女の霊。
吹けば飛びそう、触れれば折れそうな少女だった。
彼女もまた、悪霊に呪い殺されたのだろうか?
少女が消えてしまわぬよう手を掴み続けたまま思考を巡らせる。
悪霊の正体は前公爵夫人。
私が聞きこんだ内容だと、公爵夫人は元伯爵令嬢。
絶世の美女というわけではない。かといって愛らしい容姿をしていたわけでもない。けれどその所作は貴族らしく優雅で、美しかったという。
伯爵領では、女ながらに領主の真似事をしていた。将来婿を取る予定だったのだろうか。その治世は伯爵と変わらず善良にして革新的。王家の財力を裏で支えている、という噂もあながち間違いではないのだろう。そう思えるほど豊かな領地だったと聞く。
彼の領地において、彼女を侮蔑する者はいなかった。
聖女賢女と名高い彼女が、何故、悪霊へとその身を堕としたのか。
彼女は、王命にて突如公爵家へと嫁いだ。
確かに伯爵と言う地位は男爵や子爵とは違い、貴族と認められ、公爵家、更には王家へと嫁ぐことが可能だ――地位が低い分苦労が多いと聞く――が、嫁ぎ先の公爵家は、大飢饉が起きた場所。いかに公爵家といえど、その存続は難しいと言われる程追い込まれたとか。
ある意味公爵家の身売りか。
金のある伯爵家に、援助金をもらう代わりに公爵と言う地位を差し出す。
事故死した前公爵は領民の事を考え、善政を行う善良な貴族だったらしい。彼の噂を聞く限り、おそらく前公爵が王と伯爵に頭を下げ、助勢を願ったのだと思う。王命が下ったのだから、伯爵は断り、王が間に入った。
……没落寸前の公爵家ならいざ知らず、王命であれば、伯爵側は断れない。
伯爵側は、跡取りの娘を苦労しかないであろう公爵家へと差し出したうえ、金まで渡さねばならなかった。
伯爵は娘を溺愛していたらしい。
愛妻家で、子煩悩。妻亡き後、新しい妻を迎えることなく、娘の教育に心血注ぎ、その関心は専ら領民と娘にのみ向けられていた。良い貴族かどうかは別として、良い父であり、良い領主だとか。
ならば、公爵家と王家を恨んだだろう。
いや、しかし、それでは悪霊になるべきは伯爵であって、彼女ではないはず。
ならば、その後だ。
突然公爵家に嫁ぐこととなった伯爵令嬢。
普通なら、その地位の低さから、家に居ても使用人たちに馬鹿にされたり、社交界へと赴けば伯爵以下の者には旨い事を、と言われ、侯爵以上には弱り目に付け込んだハイエナと蔑まれる。
心労ばかりが募り、休まることはない。
そう、普通なら。
だが、彼女はいかに陰口を叩かれようとも、優れた才能の持ち主だ。表面上はにこやかに、誰もが彼女とのつながりを求めたはず。
実際、彼女が嫁いで数年で公爵家は持ち直したのだから。いや、持ち直したどころか、前公爵時代よりも豊かになったと聞く。
私が赴いた村や町は、余所の領地よりも立派な家々が建ち並び、道も整備され、兵士並みに訓練を積んだ専門の警備兵がおり、荒れた領地には居がちな盗賊の類も聞かない。その圧倒的な財力を窺わせるものだった。
領民たちは口を揃えて彼女への感謝を口にし、そして、その死を惜しみ、今の公爵夫人への不満を述べた。
彼女は、領地を変えてなお愛される貴族だった。
それに領民たちは口を揃えて公爵夫妻の仲の良さを語った。普通なら、地位も低く、仕方なく娶った女が我が物顔で自領を治めるのを快く思わない。しかし、流石は前公爵の息子、ということか。彼女を受け入れ、彼女が領地を周る際はぴったりと寄り添い、甲斐甲斐しく世話を焼いていたとか。そのうえ、彼女の死後、自宅に立派な墓を造り、一年もの間喪に服していたらしい。
新しい妻を迎えたのも、おそらくは彼女の忘れ形見がまだ五歳だったから。母親を求めるであろう子供の為だと思う。そのために、既に親になっていた今の夫人を選んだのではないのだろうか。
未亡人。子持ち。ならば母親として娘へと接してくれる、そう思ったのかもしれない。
……ここまで考え、眉根を寄せる。
彼女が、悪霊に堕ちる理由が見当たらない。
精々、自分以外の女を妻に迎えた、くらいだろうか。
では、その後だろうか。
この世ならざる者になる理由はわかる。領地、夫、娘、気がかりはいくらでもあるだろう。それ故に、彼女はこの世ならざる者となり、とどまり続けた。
彼女が憑りついた相手は娘だった、と仮定しよう。
そうだ。たった五歳の娘。愛し、愛された睦まじい夫婦だったと聞く。その夫との間にできた一人娘。心配しないわけがないだろう。
前公爵夫人は、娘に憑りついた。
後妻である現公爵夫人は、自分の娘も、前公爵夫人の娘も、分け隔てなく愛情を持って接していたと聞く。けれども、一瞬だけ見た前公爵夫人の娘は細かった。そして今、私が掴んでいるこの手は、彼女の年齢を考えれば、異様に細く、小さい。
まるで栄養の足りていないスラムの子供の様だ。
噂では病弱だったとか。
忘れ形見を一度でも見たいと願った領民がいなかったわけではない。けれども、領民の誰一人、少女を見たことがないという。
父親が溺愛しすぎて外に出さなかった説もあるが、悪霊となった前公爵夫人は晩年、病か、痩せ細り、弱って死んだと聞く。そこを考えるに、先天的に何かしらの問題を体に抱えていた可能性がある。そして、それが娘に遺伝した。そのうえ、娘の方が症状が重かった。そう考えれば、彼女の異様に細く小さな手にも納得がいくのかもしれない。そして、そうであればこそ、前公爵夫人の心残りが彼女である、という説にも納得がいく。
心配した愛娘。
その娘が、第一王子の婚約者となった。
体力的にも問題が多かったに違いない。
彼女は公式には病で亡くなったと言われているが、情報屋が言うには、婚約者である第一王子に殺された可能性があるらしい。
病弱な婚約者。その婚約者の義妹は健康的で美しいという。王子は、その義妹に惚れた。そして義妹もまた、王子を受け入れた、と。
事実、少女の晩年、王子は婚約者の少女ではなく、義妹の方を連れて公の場に顔を出していたらしい。自分の婚約者は体調不良で、彼女に代わりを務めてもらっている、と言いながら。
病弱な婚約者を差し置き、義妹を優遇する王子。それは、母親の目にどう映っただろうか。
この世ならざる者に実体はない。どこにでも行ける。そうして、どんなものを見たのだろうか。
義妹と逢瀬を重ねる不実な婚約者の姿?
義姉の婚約者を奪う義妹の姿?
しかし、公爵は何故そんな娘を諌めなかった?
話に聞く公爵ならば、そんな不実な真似、けして許さない筈だ。
諌めたが、どちらも耳を貸さなかった?
王家にとっては公爵家とのつながりさえあれば、姉だろうと義妹だろうとかまわないだろう。そして何より、病弱な者では王子妃は務まらない。度々体調を崩し、公務に出られない姉の方を見限っていたのかもしれない。
だとすれば、王子が姉を病死に見せかけて殺したとしても、王家は事実を捻じ曲げ、隠蔽こそすれ、けして王子を諌めたりはしないかもしれない。
第一王子、という呼び方からわかるとおり、この国には他に王子がいる。だが、第一王子ほどの才はなく、他国へ婿となるべく留学している。よほどのことがない限り、戻されることもないだろう。
そして、病弱な姉の死は悲しい事に『よほどのこと』には含まれない。遅かれ早かれ、という可能性も否めない事だったのだろう。
けれどもそれは、母親からも同じだろうか?
きっと違うのだろう。
不実で理不尽な婚約者。
その行いに怒りを溜め、その上に愛娘の命を奪ったのだとしたら……?
母親は許さないだろう。
そのような行いをした王子を。
そのような行いを黙認した王家を。
悪霊と堕ちるには十分だ。
証拠に、王家は呪われていた。
教会への依頼はこの国の王妃から。
私がこの国を訪れた時には、王子と王が病に臥せっていた。そして、情報を集めている間に王妃が失踪した。
情報屋が言うには、始まりは木々や動植物の異変。これは力の強い悪霊が生まれた時に起こりやすい。自然は負の力に敏感で、飲み込まれやすいもの。
悪霊の力に染まった物を摂取すれば、人体にも影響はある。
死んだ魚を食べたスラムの人間たちの不審死、これがそうだろう。
そして死んだ人間の魂を取り込み、悪霊はより強力な力を手に入れる。
理不尽な死を遂げた者は、総じて未練を残す。そしてそれは悪霊の餌となる。
死者を生み出し、その魂を取り込み、己が力とした悪霊は、本懐を遂げに行く。
第一王子。
義妹もそうだろうが、手を下したであろう第一王子の方が憎しみの対象だったのだろう。そして、そんな第一王子を黙認した国王も恨んだ。
二人ともほぼ同時期に病で臥せっているのだから、間違いないだろう。
悪霊は順調に二人を呪い殺そうとしていた。しかし、ここで邪魔が入る。王妃だ。
当然、王家に問題が起きている事を王妃が黙認するわけがない。教会へと依頼した。だがおそらく、情報屋から聞いた因習。人柱を行った可能性がある。しかし、その人柱では悪霊を滅することができなかった。代わりに、悪霊の怒りを買った。
理不尽に命を奪われたものは、悪霊の糧となる。
この国にはそうした魂が溢れていただろう。
彼女はきっとそれらを取り込んで、より強大な力を身に着けた。
この国を呪う声。
この国を憎む声。
この国を滅せよと望む声。
それらは、彼女の意思ではない。彼女が取り込んだすべての者の意思。
きっと彼女は飲み込まれた。そして、王妃を闇に引きずり込んだ。
この国が呪いに飲み込まれたのはそのせいだ。
憎しみの炎は留まるところを知らない。
いずれ憎しみが憎しみを呼び、世界の全てを憎んだとき、悪霊は狂霊として世界へとその手を伸ばす。
そうなる前に討たねばならない。
考えをまとめた私は、捕まえたままの手を見つめた。
白く、細い手。
見ず知らずの私を助けるため、母を止めようとした優しい少女。
悪霊は討たねばならないが、それではあまりに悲しい。
娘を想う母の心は本当に悪か?
どうにか、彼女を止める事はできないのだろうか?
浄化することはできないだろうか?
きっと、この少女もそう願っているはず。だって彼女は見ず知らずの私のために、その身を投げ出すほど心優しいのだから。
今はもう口がなく、言葉が交わせない少女。君の憂いは私が晴らして見せよう。それが、私ができる最大限の感謝の証だ。
「私が、必ず君のお母さんを救ってみせるよ」
だから安心してほしい。
両手で小さな手を包み込む。
白い手は戸惑うように微かに震えた。そして、安堵したのか、力を使い果たしたのか、溶けるように静かに消えた。
後には何も、残らない。