SAYONARA
SAYONARA…もうこの島に来ることはないだろう。広島港行き高速船からの景色は、いつもと変わらない穏やかな海と霞んだ霧が島一体を包んだ。この日辞令を受けた次郎は、国家に仕えた誇りや未練もなく、むしろモヤモヤしたこの景色とは反対に晴れた気持ちで次の就職先に胸を弾ませた。
退職前の有休処理で、南九州に生活拠点を移すことを決意し、海岸にほど近い福祉施設に就職を決めた。福祉の経験がない次郎は、拾ってくれた施設長には感謝の気持ちで一杯だった。年収は以前と比べてかなり減額し、それを周りは冷めきった眼と肌で次郎を見下し、同僚たちとの会話もなくなった。ただ、今後どう生きたいか、自問自答した結果であり、今まで規則に足枷を掛けられた次郎は密かに民間オアシスに憧れていた。
経験は教会に絡まる蔦だ。真っ白な自分に経験という蔦が二重も三重にも絡み合い、風味の濃い男を作っていく。他人からは良いように映る。しかし、本当の自分を忘れてしまう。昔は渋い苦いと味覚が反応した。だが今はコーヒーの渋みが看過し深みを伝える。ビールの苦さが看過し余韻に溺れる。これが慣れた大人の味覚なのか…それとも汚された味覚なのか…そして本当の自分が分からなくなる。廃墟した学校の音楽室。ぐちゃぐちゃになている複数のエレクトーン。捨てちゃえ…溜飲を下げる。
SAYONARA…チェロのグリセリン音色を浴びながら、モールでジワリジワリと前に進み蔦を剥がして行く快感。本当の自分を取り戻す…
博多駅は午後2時を過ぎ、次郎は遅い昼食と早い夕食を公約数の1回で摂った。そもそも、昼食と夕食って誰が決めたんだ…考えれる癖は今も治らない。余計なこと考えないように自分に言い聞かせた。5メートルほど先に直面している人の膝奥にある薄暗い三角コーナーが妙に気になる。アフリカに4年過ごせば、視力上がるかな。そして4年後もう一度ここで試したい。彼女は多分23歳ぐらい。次は27歳か。4年後またここで…SAYONARA…。次郎は店を後にした。4分後、次郎は自分に誓った約束事をすでに忘れていた。
「すごい綺麗なお部屋で、海が一望できます。実は私も住んでみたいんです。」不動産の人の勧めと次郎の意見が一致し、住処を決めた。遠い海を見る。時空を超え、スクリーンの保存をクリックする。もう7年前だ。次郎は東北にいた。陸ではなく洋上で、救難救出に就いていた。一息入れる間もなく、すぐに艦にご遺体が運ばれた。「看護長、後はお願いします。」乗員からご遺体を引き継いだ。容姿は小さかった。肌も綺麗で、関節が硬直し、背中の所々に紫斑が残っている。肌は冷たい。ベテラン乗員が供物を持っている。瞳孔は混濁しライトを当てても反応しない。5歳くらいの女の子。涙が出そうになった。しかし、その姿を見れば乗員が不安がる。コイントスの意識の切り替えで感情を封印しプロは淡々と粛々とやってみせる。人の痛み、命の尊厳の感情移入が強くなるほど、海風でコインがひっくり返り涙に浸りながら、本来の任務が滞ってしまう。しかし、感情を封印し持続することで、命の尊厳を忘れ遺体に慣れてしまう。そんな自分よがりな考えは今はいらない。今はただ、この子が皆んなからしっかり供養され、天国で幸せに過ごせることが一番。最後に笑って欲しいな。SAYONARA…