第九話、永続する構造的瑕疵
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うだるような灼熱の大気をまとって自動ドアをくぐり抜けると、適度に冷やされた風がぼくと和泉を包み込んだ。
暑そうには見えなかった和泉がふうと息をつく。
「すずしー。さいこー」
最高だった。文句なしの冷房。まったく天国に昇りつめたような気持だ。もっとも、実際にここは天国にかなり近い場所ではあった、不謹慎な話ではあるが。最終電車のプラットホーム。行先はまだ見ぬ十万億土。
ぼくははっとすると、一息つく間もなくきょろきょろと視線を漂わせた。
吹き抜けの巨大なエントランスホールに、そいつは見当たらなかった。しかし、ちょっと目を凝らして注視してみれば――くそっ、やっぱり見えてくる! そいつは充満していた、あちこちに。まるで蝙蝠、いやなやつだ。気にも留めなければ、路傍の石程度の存在感しかないけれど、ひとたび意識を向けてしまったら最後。そいつは――死の気配ってやつは、いつだってぼくたちのそばにいるんだ。そして、この病院という場所は、とにかくその気配が濃厚で、息が詰まりそうになる、毎度のことだ。
世界の終わりが明日に迫っているかのような絶望的な面持ちでシートに座る中年夫婦、鼻から管を垂らして時速1㎞で歩く老年の男、真っ赤な目で携帯電話に何事か喋りかけている若い女。
ぼくはそういう光景に、しばらくのあいだ魅入られたかのように目が釘付けになった。じつは身近なんだ、こういうことは。でもある程度の若さと健康、ついでにちょっとした蒙昧さがあれば、そいつに気が付かないふりができる。本当は、いつだって忘れてはならないことなのに、だけどぼくたちは、ボンクラで、どいつもこいつも盲いたみたいに、わざと知らんぷりをしている。で、ある日豁然と思い知るのだ。死神の鎌はもう表皮まで肉薄していて、命乞いは絶対にできないってことに。嘆こうが、祈ろうがとうに遅い。マヌケどものイカれたチキンレース、褒賞はあの世への片道切符。掛け値なしのうっかり屋ってわけだ、ぼくたちは。
「おーい、野方。なにしてんだよ、早くしろよ」
ぼくは和泉の声で我に返る。
やや離れた場所でちょっと首を傾げた和泉からは生の匂いがした。
「ごめん」
「ぼーっとすんなよな。いつサユリの母親が来るかわからないんだからさ」
「今日はもう来ないって話じゃ?」
「そーだけどさ。何があるかわかんねーだろ」
「うん」
ぼくは、もう考えるのは止そう、と思った。何を知っているんだ、いったい、命の、人生の、何を知っているというのだ。戯言だ。もう、止そう。
幅の広い階段を上っていく和泉の背を、ぼくは死の気配を引きはがすようにして追いかけた。
〇
二階の連絡通路を越えた先に、入院患者のひしめき合う病棟があった。どこもかしこも清潔で、掃除が行き届いていた。床でも壁でも舐められそうなくらいだ。
白衣をまとい、真面目ぶった女たちの横を足早に通り過ぎる。ナースステーションに用はなかった。長い、百メートルトラックみたいな廊下を歩く。途中、松葉杖をついた一桁代の少女に出会う。テレビでしか拝んだことがないとばかりに和泉の金髪を仰ぎ見ていた。和泉がべえ、と舌を出すと、少女は目を丸くしてから、きゃははと笑った。
「かわいいね」
「そうですね」
西ヶ原さんの病室は最上階の一つ下のフロアにあった。
個室だった。ドアの横にはネームプレートの代わりにタッチ式のディスプレイが設置されている。
和泉がドアをノックした。そういう気遣いはできるらしい。ただ、返事は待たずに入室するあたりは流石だった。
「来たよ、サユリ」
ぼくは病室に入らず、ゆっくりとスライドして閉まるドアに片足を挟んで、中の様子をうかがった。
広い部屋だ。そして清潔。短い廊下の右手には洗面所と風呂場らしき入口がある。左手は壁で、奥の方に牛でも乗れそうなデカいソファーがあった。その向こうは窓。白くくすんだはっきりしない青天が広がっている。ソファーの正面がベッドらしいが、ここからでは見えなかった。
声が聞こえてくる。
「顔色いいじゃん」
「そうかな。鏡で見ると別人みたいだけど」
「痩せたからだよ。もっと食べなくちゃ」
「うん。あんまり美味しくないんだ、ここの食事」
「そりゃそうだ。病院食が美味かったら、意味ないじゃん」
「どうして?」
「だって、ずっと入院したくなっちゃうだろ?」
くすくす。かすかな笑い声。
「早く退院したいんなら、もっと食べな」
和泉の声はやさしげだった。普段よりもずっと。けれど、別に意外だとは思わなかった。
ぼくは知っていたのだ。彼女が、和泉鏡子という金髪の不良女が、じつはいまにもはち切れそうな胸いっぱいの愛情を持て余していることに、そしていつだって、そいつを誰かに分け与えてやりたがっていることに、ずいぶん前から気づいていたんだ。
気立ての点で、ぼくは彼女の足元にも及ばない。和泉のそばでは、ぼくなんぞはくだらない人間だった。いや、ぼくだけじゃない、たいていのやつらがそうだ。陰気で、生意気で、不感症気味で、のぼせ上った有象無象なんだ。いばれたもんじゃない。しかし、まあ、ぼくはいばるつもりもないし、和泉を見習うつもりもなかった。あんまり好きじゃなかったんだ、そういう無自覚な愛情ってやつが。苦手だったんだ。でも、本当は、ぼくはそれが欲しくてたまらなかったのかもしれない。
「あれ? おい、早く入って来なよ」
「誰かいるの?」
「うん。野方だよ」
「野方くん?」
ぼくは後ろ手にドアを閉めると、病室に足を踏み入れた。
上半身を起こした西ヶ原さんの姿が目に入る。なぜかそのとき、ぼくは小さな失望を感じた。メニューの見本とは全然違う薄っぺらいステーキが出てきたときに感じる、あの当てが外れた虚しさ。おそらく、ぼくが西ヶ原さんをお見舞いに行くという選択をした大いなる謎につながる部分がここにあった。
彼女はひと月半前に集中治療室に運び込まれた人間とは思えないくらい元気そうだった。たしかに顔色も悪くない。顔の右側、頬と耳の間くらいには痣の痕が残っていたが、そのうち消えそうなほどかすかだった。足と腕にはまだギブスが取り付けられていたが、それもよく見るきりたんぽみたいな馬鹿げたものじゃなく、包帯を巻いた程度に見える。胸骨を折ったと聞いたが、とくになにかしらの施術中には見えなかった。まあ、ようするに、元気そうだった。
「野方くん……来てくれたんだ」
西ヶ原さんは、目を泳がせながら、ぎこちなく笑っている。
ぼくは、「ああ」と言った。
「でも、あれっ、えっと、キョウちゃんと野方くんは……」
「あー、言ってなかったっけ。アタシ、野方と結構前から付き合ってるんだよね」
「えっ? そ、そうなの?」
「ウソ」
「ええ? 嘘なの? もう、どっち」
「うーん。ホント、かな?」
忙しそうに表情を変える西ヶ原さんが、困ったようにぼくに目で問いかけてくる。
ぼくは、「付き合ってなんかない」と告げた。
「もう、キョウちゃん。びっくりしちゃうから、やめてよ」
和泉は口を開けて笑っている。そんなの、信じる馬鹿いないだろ、そう言って笑っている。
「けど、知り合いだったのは驚いちゃったな。違うクラスだもんね?」
「そ。ほら、あれだよ、非常階段で」
和泉が煙草を吸うジェスチャーを見せると、西ヶ原さんは複雑な面持ちで言う。
「やめなって言ってるのに。身体に悪いんだよ」
「そんな状態のアンタに言われたくないね」
「野方くんも、吸ってるんだ」
「そうそう。コイツなんてアタシよりも吸ってるよ」
「そっか、まだ、吸ってるんだね」
西ヶ原さんは、ほんの一瞬憂いを帯びた表情を浮かべたが、すぐに目を細めた。
「二人とも、病気になってからじゃ遅いんだからね」
「他人の心配するより、まずは自分の体を治すのが先でしょ、アンタは」
他愛もないお喋りが始まった。
ぼくは、3人はゆうに座れそうなソファーの窓際に腰を下ろした。窓からは欧州風な瀟洒な庭が見えて、その向こうには青々とした田畑が広がっていた。マヌケな光景だ。ふたりはまだ煙草や身体について意見をぶつけ合っている。けれど、刺々しい感じじゃない。小さな子どもみたいな調子で、いかにも楽しげだった。
ぼくはふたりを眺めながら、西ヶ原さんを見舞ったぼくの心境について考えた。いろいろ分析して、十重二十重に検討しなきゃならないことなんだろうが、早い話、何かを期待していたってところが真実に近いような気がする。それはまともじゃないことだった。
白状すると、ぼくは、彼女が、校舎の四階から飛び降りた西ヶ原さんが、絶望していることを望んでいたようだった。そうあるべきだと思った。それが自明の理だと確信していたんだ。間違っても、一か月かそこらで友人とお喋りできるような、平たい精神状態であるなんて思いたくなかった。
だって、そうだろう? 彼女は自分からあの世へ飛び立とうとした人間なんだ。絶望してなきゃ、あるいはイカレてるって考えるほかないじゃあないか。西ヶ原さんはイカレているようには見えない。とすれば、絶望してしかるべきなんだ。いや、どうだろう、彼女はイカレているのか?
まあ、どうだっていい。いずれにしてもぼくは西ヶ原さんが絶望している姿を見るために、わざわざこのクソ暑い炎天下の中、チンピラ女と一緒に病院くんだりまでやって来たらしかった。当ては外れた。どんな馬鹿げた理由があって、彼女が失意に傷ついている様子を見たかったのかなんて、ぼくは自分のことをうまく理解していないから、当の本人でもそんなことはわからない。たぶん、本当にイカレているのは、ぼくなんだろう。それだけの話だ。
ぼくは帰ろうと思った。もう、ここにいても呆けて窓の外を眺めている意外にやることがない。
そんなときだった。
病室の扉がスライドして、四十くらいの小奇麗な女が顔をのぞかせた。
ふたりの賑やかな会話がぶつ切りになって、室内が静まり返る。
女は、まずぼくを見て、それから蛍光灯に輝く黄金の髪の毛を見て、それからベッドの西ヶ原さんを見た。
しばらく誰も口を開かなかったが、やがて女は疲れた表情で言った。
「紗佑里、お友達?」
西ヶ原さんは、じっと女の目を見て、それから、「キョウちゃんだよ」と言った。わからないの? そう言いたげだった。
女が和泉に視線を投げる。その目つきはひどく挑戦的な色を帯びているように見えた。あんまり知り合い、たとえば自分の娘の友人に向けるような目ではなかった。侮蔑的言ってもいい。
和泉はやや俯いて、女の視線を避けるようにして、頭をほんの少しだけ下げた。前代未聞だった。このチンピラが人に敬意を表しているところなんて、いまだかつてぼくは見たことがなかった。
「それで、野方くん」
西ヶ原さんがぼくを紹介する。
ぼくは立ち上がって、「こんにちは」と言った。頭は下げなかった。
女は上から下までぼくを観察してから、「こんにちは」と高い声を出した。ぼくは、真正面から人を品定めするような、程度の低い品性とその目つきそのものに胸糞悪い気分を覚えた。
「あの、失礼ですけど」
女はブランドもののハンドバッグをテーブルに置いて言った。
「紗佑里はまだ本調子じゃないんです。お引き取りいただいてもよろしいですか」
「お母さん!」
西ヶ原さんが大きな声を出した。
「私、もう大丈夫だよ。キョウちゃんも野方くんもお見舞いに来てくれたんだから、そんな言い方って――」
「いいよ、サユリ」
和泉はどこか寂しげにほほ笑んだ。
「もう帰るから。お邪魔しました。野方、帰ろ」
「待って、キョウちゃん」
「――悪いんですけど、もう来ないでくれますか。この子、本当に危なかったんです。静養しないとって主治医も仰っていたし。ですから……」
「やめてよ、お母さん」
「わかりました」
和泉はきっぱりとそう言うと、ほんのわずかに唇を噛むようにしてから最後に西ヶ原さんに小さく手を振って病室を出ていった。
ぼくは西ヶ原さんとその母親を一瞥して、「さようなら」と言った。
「……野方くん、あのね、私」
「紗佑里と仲良くしていただいてるの?」
西ヶ原さんを遮るようにして、その母親がぼくに尋ねる。どこか媚びるような声音で、それは和泉の姿が見えなくなった途端だった。
ぼくはなぜかゾッとした。その露骨な態度の変貌に、途方もない嫌悪感を覚えながらも、いくばかの虚栄心を感じたんだ。
彼女は間違いなく娘のことを大事に思っていた。そして和泉のことを路地裏の薄汚い野良犬のようにも思っているんだろう。だけど、その連れ合いであるぼくに、なぜかおもねるような愁眉を見せている。たぶん、この女にそんな気なんてなかったと思う。流儀ってやつだ。そうやって彼女は生きてきたのかもしれない。身体に染み付いた処世術なんだ、きっと。
ぼくは奇妙な心持を抱えながら曖昧に笑った。
「それじゃあ、ぼくはこれで」
ぼくは頭を下げた。そんな気分だった。
「ええ、お見舞いありがとうね」
「野方くん……」
西ヶ原さんは打ちのめされたような顔をしていた。
ぼくは踵を返して、病室を後にする。背中に「キョウちゃんに……」という声が聞こえた。
〇
和泉は病院のエントランスホールで、なんだかよくわからない観葉植物の隣に座っていた。不貞腐れたような面だった。
ぼくが近寄ると、和泉は長い髪をかき上げながら立ち上がった。
「帰ろっか」
いつの間にか狂ったような残暑は鳴りを潜めていた。太陽はまだ視界の端にちらついていたが、田畑を吹き抜ける風は、少しは涼しくなったらしい。
ぼくは煙草に火をつけた。
西日のせいか、目に映るあらゆる事物が、下手なクリエイターが加工したみたいにはっきりした夕方だった。
ぼくらは影を追いかけるように歩いた。
遠くで梵鐘の音が響き渡っている。
畦道には短い黒髪と輝く黄金の頭。小川。橋。平屋。コンクリートと砂利道。煙草の灰。
「サユリのお母さん、怒ってたね」
そうだろうか? 違うと思う。
「久々に顔合わせたけど、やっぱ綺麗だな、あの人」
夕焼けチャイムが鳴った。ぼくは和泉に煙草を勧める。
「今日は来ないって言ってたんだけどな」
和泉は煙草のフィルターをトントンと叩いた。
「アタシ、嫌われてるんだなあ」
それきり和泉は煙草で口に蓋をした。
どうしようもなく下らない晩夏の一日が暮れていった。