第八話、陽炎と蝉の亡骸
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胸骨、前腕骨、腓骨、距骨、脛骨など、十カ所以上の骨が折れて、あちこち内出血でどす黒くなるほど右半身をしたたかに打ちつけ、額はがま口みたいにぱっくりと芸術的に割れた。当然、重体だった。いつなんどき草葉の陰から先祖が迎えにやって来てもおかしくない瀕死の重傷。職務に忠実で、少々気の早い死神がいたのなら、きっと今頃は、浄玻璃の鏡の前に立ちつくして、こんなはずじゃなかったなどと喚いている頃だろう。あるいは、ようやく肩の荷が下ろせてホッとしている頃かもしれない。まあ、そんなことはどうだっていい。なんといっても、三日三晩生死の境をさまよった挙句、西ヶ原さんは生還したのだから。
みんな後から聞いた話だ。夏休みが明け、煙草をせびりにきた和泉が尋ねてもいないのに語った話。知ったところで何も変わらない、三面記事のような内容。ぼくは煙草を吹かしながら適当に相槌で応答しただけだった。
西ヶ原さんは、地獄の釜の蓋が開いたような酷い暑さを尻目に、クーラーの効いた部屋で清潔なシーツの上に身を横たえていたらしい。夏休みのあいだ中ずっとだ。さぞかし快適であったことだろう。もっとも、手も足も動かせない状態に満足していられればの話だが。意識を取り戻してからも体は自由にならなかったようで、自殺衝動の有無は知らないが、それ以上自分を傷つけることもなかったらしい。ただし、推測の域は出ない。
一方、ぼくは宣言通り、夏休みをほとんどそっくり使って金を稼いでいた。家とパラビの往復だ。働き蟻もかくやと思われる勤勉さ。脳細胞の緩慢な死滅。知的好奇心とは無縁の刑務的サイクル。おかげで金はたまった。もちろん、学生に対する給料なんてたかが知れている。あくまでもその範疇で煙草銭に不自由しないくらいには、通帳の残高を積み上げていったという話だ。そしてその間、つまり夏休みの労働期間中、ぼくは一度も西ヶ原さんのことを思い返さなかった。
語弊がある。正確じゃない。フェアじゃないといってもいい。
ぼくは西ヶ原さんだけではなく、同級生の誰一人として頭に思い浮かべなかった。和泉だってそうだ。同様に浅木も生物部の連中も。
だから、翌日に始業式を控えた午後十時、何気なくカレンダーを目にしたぼくは、なんとも現実味のない気分を味わった。明日から学校に通うという帰納的事実がずいぶんとマヌケにみえたのだ。
そうか、ぼくは学生だったのか。
学生。高校生。二学期を迎える、ワルでも不良でも落ちこぼれでもない、高校二年の男子生徒。
そうさ。忘れていたのか? ワルでも不良でも落ちこぼれでもないきみは、学校へ行くべきだ。それが普通、というものだからね。
頭の中の割とマシな部類のぼくが賢明なことを言っている。
ぼくは風呂場の鏡の前に立った。口の中で、普通と呟いてみる。
シャワーから水が勢いよく噴き出した。
「普通」
作り置きの麦茶を喉を鳴らして飲み干す。
ふいに、愕然として、それから奇妙な感覚に襲われた。
ぼくは笑った。
カレンダーなんて捨ててしまおうか? ついでに携帯電話も捨てちまおう。それでどうする? アルバイト漬けの生活か?
くそ面白くもない冗談だった。
「普通」
歯を磨いて、布団を敷く。
ベランダに出て、薄汚い野良猫が鳴いているのを見ながら、煙草を吸った。夜になっても暑い。
「普通。普通。普通」
馬鹿馬鹿しい夢を見て、翌朝、午前六時に目を覚ます。
ぼくの夏休みはこうして終わった。悪くはなかった。
ただ、詐欺にあった気分だ。
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西ヶ原さんが根城にしている病院を訪ねる選択をとったのは、ぼくがぼくに課した謎のひとつだった。
熱風に苛まれて、ワイシャツの裾周りをバサバサやりながら和泉が言う。放課後の非常階段だった。
「ホント苦労したよ。ずっと付きっ切りなんだからさ、サユリの母親」
ぼくはかすかに覗く和泉の白いお腹と形の良いおへそを盗み見た。
「昼食べに行く隙を狙って、ちょっと顔出すくらいが限界」
コーラを一口含んで、ぼくは煙草に火をつけた。
「でも、元気そうだったよ、サユリ。まだギブスだらけだったけどね」
「そう」
「うん。でさ……」
和泉は言葉を継ぐ前に、ぼくのコーラを勝手に飲んで、ふう、と息をついた。ぼくは舌打ちをする。
「明日の夕方なんだけど、母親お見舞いに来れないんだってさ」
「うん」
「だからさ、アタシ、顔出そうと思うんだよね」
「ああ」
「でね、野方、アンタも行くでしょ?」
「どうして?」
「ん?」
和泉は目をぱちぱちさせて、不思議そうな顔をした。
こう見ると、和泉は目が大きい。おそらく西ヶ原さんよりも。いつもタチの悪い不景気な目つきをしているから、余計に際立っている。
ぼくはしばらく和泉の顔を何とはなしに見つめていたが、やがてゆっくりと視線を山の方へ移して頭をひねった。
「ねえ、行くだろ?」
ぼくは無視して、考え込んだ。
見舞いに行く理由と、行かない理由について黙考した。
考えれば考えるほど、行かない理由が脳裏に箇条書きされていく。行く理由は本当に、これっぽっちも見当たらない。
ベッドに横たわるやつれはてた痛々しい女生徒とぼく。大した関係性もない。ただそこにあるのは取引だけ。友情を寄せたこともないし、今度だって、心配すらしていない。これで見舞うなんて、それはもう嫌がらせの類ではなかろうか。
相手はどう思うだろう、西ヶ原さんは。もしもぼくが彼女だったら、間違いなく恨んでいる。なにせ、自殺を止めなかったのだ。木偶のように突っ立っていただけの男。阿呆のように、いや、雷に怖気づく幼子のようにカタカタと震えていた無能。それがぼく。取引なんてクソの役にも立たない。西ヶ原さんはきっと憎悪しているはずだ。そんな奴が、病室に現れたら?
ただ、ぼくはどうでもよかった。彼女がぼくに何を思おうが、彼女を見舞うことと同じくらい、心底興味がなかった。
「おーい、返事。なんか言いなよ。ねえ」
ところが、だ。なぜかぼくは和泉に向かってこう言っていた。
「何時にどこですか?」
和泉は目を細めて、ぼくの肩を小突いた。
大いなる謎。
明日、ぼくは西ヶ原さんのお見舞いに行く。
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学年で一番目立っている女生徒の自殺未遂は、校舎を揺るがすほどのバラエティーに富んだ揣摩臆測を撒き散らした。曰く、恋愛がらみの発作的行動、曰く、複雑な家庭の事情、曰く、精神的な病。一部の女子の間ではイジメが原因であると、まことしやかに囁かれていたし、中には、くだらないサスペンスドラマよろしく、犯人捜しを試みる物好きまで現れる始末だった。
「野方はどう思う?」
甲子園の夢が一旦遠のいた二宮が真っ黒に日焼けした顔を寄せてくる。
「わからないな。ただの事故なんじゃないかな」
「事故じゃねえだろ。だって四階の窓だぜ? わざわざ乗り越えるか? 俺はイカれたファンの仕業だと思うね。それか恋敵の女。怪しいのは高尾レミだな」
二宮は意外にもミーハーだった。
「ファンて?」
「知らねえの? 西ヶ原、めっちゃ可愛いじゃん。そりゃファンくらいいるっしょ」
「ファンくらいいるのか」
「いるんだよ」
「二宮も?」
「まあ、ファン一歩手前って感じだな。レフトポール際の大きなファールボールってところだ」
「ホームランでファン?」
「違う。三振。ストライクアウト。バーターチェンジ」
二宮はぶんと素振りをする。
意味が分からなかった。
正午を過ぎて急激に上昇した気温は午後四時を過ぎてもまったく下がらなかった。日差しが強く、視線の先で陽炎が揺れている。蝉は辺り一帯を観客席にして、相も変わらず迷惑な交響曲を奏でていた。
ワイシャツの第二ボタンまで開けようか迷いながら校門をくぐると、和泉が鞄を肩にかけて待っていた。金髪をかきあげて、涼しげな顔をしている。実際汗一つかいていない。こいつは、本当に同じ人間なのだろうか?
ぼくらは肩を並べて、郊外にある病院を目指した。
橋を渡って、バラック小屋みたいな安普請を通り過ぎ、だだっ広い田んぼの畦道を歩いた。悪夢みたいな暑さだった。
ぼくは額を拭いながら、煙草に火をつけた。滴り落ちる汗が奇跡的に直撃して、煙草の火が消えた。お告げだと思った。ぼくは吸いさしを無造作にポケットに突っ込んだ。
隣を歩く和泉に問いかける。
「ねえ、和泉」
「んあ?」
「どうして汗をかかないんです? ちょっと、信じられないレベルですよそれ」
「知らないの?」
「は?」
「いい女はさ、流すのは涙だけなんだよ」
得意げだった。
空を仰ぐと、嘘みたいに馬鹿デカい積乱雲が遠くに見えた。
夏は秋の背中を蹴飛ばして、まだまだ居座るつもりらしい。うんざりだ。
「おい、なんか言えよ」
国道にさしかかり、広大な駐車場と白亜の壁が見えてきた。
「病院、そろそろですよ」
「……うん」
歩道の片隅に蝉の死骸が転がっていた。