第七話、普通の生活
〇
ガタガタと悲鳴みたいな軋む音を立てて、オンボロの自動ドアが開く。生ぬるい風を受けて、最近癖になっている舌打ちをこぼすと、店頭に並んだ時代遅れのCDやVHSを店内に運び入れた。
閉店作業だ。いまどきこんな遺物を買いに来る物好きなんていやしないのに、そんな物好きが来る天文学的数字に賭けて、店長も水脈さんも相変らずガラクタを真夏の風に吹き晒すのをよしとしている。まったく理解できなかった。だいたいここは本屋だ。本以外が欲しいなら、もっとまっとうな、少なからずこんな場末の本屋でない店に行くだろう。
この店、パーラービブリオで働いていると、理解できないことが山ほどある。だからそれにいちいち解答を求めていたらキリがないし、精神衛生上よくない。したがって、ぼくは黙って単純作業に従事する。なるべく頭を空にすることに専念する。指示されたことだけをこなし、余計な労力は使わないようにする。水脈さんの話は聞き流す。客の顔は覚えないようにする。万引きを企てようとする奴、あるいはした奴には容赦せず、日ごろ溜まった鬱憤を全力でぶつける。
そうやって、ぼくは下らない小遣い稼ぎに一応の折り合いをつけていた。
慣れてしまえば簡単だ。あとは勝手に時間だけが飛ぶように過ぎていく。即席のタイムマシンみたいなものだ、それがぼくのとっておきの裏技のひとつなのだ。
ガスひとつない冬の空みたいな真っ青なエプロンを脱ぎ捨てて、ぼくは本日の業務を終えた。
水脈さんに一言告げて店の裏口から出ると、すでに町は蒸し暑い真夏の夜に没していた。閉店作業中から何度も震えていた携帯電話を取り出すと、ぼくは履歴の一番上を呼び出した。
コール一回、うるさい声がぼくの耳を蹂躙する。
『野方、おそい。どれだけ待ったと思ってんの』
ぼくは通話相手の抗議を無視して、場所を尋ねた。
『駅前の喫煙所。早く来ないと、奢ってあげないよ』
「それなら、ぼくは帰ります」
『いいから、早く来な!』
通話が切れる。
ぼくは夜空を見上げて逡巡したが、チンピラ紛いの不良女でも話し合い相手がいるだけましだと思い、駅の方角へ足を向けた。
駅の方から歩いてくるスーツ姿の勤め人は、みんな途方に暮れたような顔をしていた。どいつもこいつも、いまの人生は間違っていて、じつは自分の知らないところに隠された本来の有意義な生活があるなんてことは夢にも考えたことがなさそうだった。寝ぼけ眼で出勤し、頭を垂れるだけのクソつまらない仕事をこなし、愛情の乏しい食事をとって、また仕事に舞い戻る。そうして気が付けば日が暮れて、運命づけられた呪縛のごとき安普請の二階家に帰巣する。それが奴らのすべてだ。
なんて退屈で尊い生活だろうか!
正解だ!
隠された本来の生活なんて、そんなものペテン師の口車に過ぎない。見誤ってはことだ。なけなしの金と時間を犠牲にして一軒家を汲々と手に入れたボンクラに、メディアが見せびらかす夢なんて幻以外の何ものでもない。害悪だ。落とし穴だ。振り回されてはいけないのだ。
だからぼくは好きだった。疲れ果てて帰路につく、あのスーツの連中を敬愛していた。惨めな正直者の群れ。純真な犠牲者。まばゆい夢を見ないで、粛々と死ぬほど退屈な生活を守り続ける、資本主義の番人たち。世界には歴史を作れない人間の受け皿が無限に用意されていた。
近い将来、ぼくもその一部になるはずだ。ときには退屈で気が狂いそうになる日もあるだろうが、おそらく間違ったことじゃあない。普通が一番なのだ。
波風立てない、穏やかな普通の生活!
ぼくは駅前を目指す。
ひと気のない喫煙所に、和泉はぼんやりと佇んでいた。
長い金髪とキツいところはあるが割と整った顔立ちは、煙草が良く似合っていた。黙っていればいい女なのかもしれない。しかしそれは魚類に陸へ上がれと言うようなもので、黙れないからただのチンピラなのだった。
「おまたせしました」
「おー」
「ぼくも吸っていいですか」
「うん。アタシもいま火つけたばっかだから」
ぼくらは黙って煙草を吹かした。
ときおり、通行人が若すぎるぼくらの容姿を訝しげに眺めていたが、和泉が睨みを利かせるとただちに無関心を装って通り過ぎていった。
しばらくして和泉が言った。
「聞いたよ。大変だったらしいじゃん」
「まあ、そうですね」
「何があったの」
ぼくは吸い込んだ煙を肺に押し込んで、和泉の切れ長の目を見た。
「和泉には、関係ないことです」
「は? ……なんでそんなことアンタにわかるんだよ」
「ねえ和泉、いろいろあるんですよ。誰だってそうでしょ」
言外にこれ以上問うなと意味を込めたつもりだった。
和泉はじっとぼくの目を見返してから、煙草の火をもみ消して立ち上がった。何も言わずに、喫煙所を出ていく。
ぼくは急がずにフィルター近くまで吸いきってから、彼女のあとについていった。
和泉が案内したのは駅前のファストフード店だった。乾いたバンズにしみったれた薄い肉の挟まったハンバーガーと油まみれのポテト、Mサイズのコーラを持って、ぼくらは二階のテーブル席に座った。
二階の大きな窓からは駅前が見渡せた。店内はぼくらのような夏季休暇中の高校生や若者でそこそこ混んでいた。
「和泉が本当に奢ってくれるとは思いませんでした」
「えらいだろ」
「どうかな。普通約束は守りますからね」
「うるさい」
「ありがとう。美味しく食べさせていただきますよ」
「うん」
普段あまり食べないファストフードは特に大した味ではなかった。だが奢ってもらう立場で文句をいうつもりもないから、ぼくはさっさと胃袋に流し込むことにした。
目の前のチンピラはふくふくしくポテトを頬張っていた。この世で一番の絶品を味わっているかのようだった。安い舌で満足している様は、いくら不良の金髪女でも愛らしく見えた。
ひと通り食事を片づけると、ぼくらは下らない話をいくらか交わした。一言も記憶に残らない無意味な会話だった。
やがて真面目くさって和泉が言った。それは、一つ前の話題をまったく踏襲していない唐突としたものだった。
「いじめが原因?」
「なんですか?」
「西ヶ原、のこと」
「……どうなんでしょうかね」
蒸し返すつもりらしい。適当にあしらおうか迷った。
ぼくは自分のことを弱い人間だとは思っていない。だからといって強い人間だと公言できる自信は芥子粒ほどもない。また、自分を一般的な高校生と同じだと思っていないが、著しく逸脱しているかと問われれば、首を横に振るだろう。中途半端で面倒くさい奴なのだ、ぼくは。そしてそんな人間なりに、現状を憂いて悩むことだってある。当たり前の話だ。
こいつにすべて洗いざらいぶちまけたら、少しは気分も晴れるんじゃないか? 和泉は馬鹿だが筋を通すという点においては余人の追随を許さない。ようするに信用できる奴ということだ。
話してはいけないという制約はなかった。ただ、事情を話すのはおそろしく面倒だった。
「この前さ、アンタ、西ヶ原のことアタシに訊いたじゃん?」
覚えていなかった。いつの話だ?
「それで、今回、西ヶ原のそばにいたわけでしょ? 何か知ってるんじゃないかと思ってさ。どう見ても仲良さそうには見えないけど」
「その通りですよ。ただの知り合いです」
「ホントかよ」
「やけに首を突っ込もうとしますね」
「……悪い?」
ぼくは肩をすくめて、コーラを飲んだ。
和泉は金髪をかきあげる。さらさらと長い前髪が顔の前に落ちて、鬱陶しそうに耳にかけた。
「アタシさ、言ってなかったけどね」
「なんですか」
「西ヶ原とさ、幼馴染なんだよ」
「……そう」
だからなんだ、とぼくは思った。驚くほどのことじゃない。
「昔はよく遊んでた。まあ、中学行ってアタシがこうなってからは、付き合いが減ったんだけどね」
和泉は自嘲気味に笑った。
「親が厳しい家なんだ、あいつ。そりゃ、アタシなんかと関わらせたくなくなるよね」
「でしょうね」
「む、うるさい、バカ――んでさ、それでもサユリはちょくちょくアタシに声かけてくるんだよ。親からキツく言われてるのにさ」
サユリというのは西ヶ原さんの名前だ。紗佑里とアドレス帳に書いてあった。
「だからたまに一緒に帰ったり、服買いに行ったりしてた。ついこの間も、ね」
「それで?」
「だからっ、アンタがさっき言った関係ないって言葉、間違ってるってこと。関係あるんだよ、アタシとサユリは」
「……」
「友達なんだよ、アタシたち」
ふいに和泉の表情に影が差した。彼女と出会って初めて見る暗い顔だった。
「いじめが原因だとは思ってない」
和泉がまじまじとぼくの顔を見る。次の言葉を待っているようだ。
「遠因かもしれないけど、直接関係があるかと問われれば、ぼくはそうは思わない」
「……よく、わかんない」
「でしょうね」
「わかるように説明しなよ」
煙草が吸いたい。
ここは喫煙席じゃないし、店自体が禁煙だ。いまやどこもそうだった。喫煙者の肩身はおそろしく狭い。
しかたなくぼくはポケットからガムを取り出して口に放り込んだ。
「西ヶ原さんは、もっと大きな悩みを抱えていたんだ。幼馴染の和泉にも話せないような根深い悩み――いや、お前だからこそ話せなかったのかもな」
「大きな悩み……なんでアタシに話せないの?」
「さあ。それは西ヶ原さんだけが知っていることだ」
「じゃあ、どうしてアンタはサユリの悩みを知ってるの」
「運が悪かったんだ。ぼくに予知能力があるなら、絶対にあの日、あの場所で煙草なんて吸わなかった」
「はあ?」
「こっちの話です。とにかく、いじめが原因だとは思わない。ぼくが言えるのはそれだけです」
和泉は釈然としていないようだった。まだ聞きたいことが喉の奥にたっぷり控えているらしかったが、口に出そうとはしなかった。
いまやぼくは、和泉にすべてを話してしまおうとは思っていなかった。西ヶ原さんが悩まされていた自殺衝動や取引のこと、そして最後に見たあの悪意の塊も、すべて自分のなかにしまっておこうと思ったのだ。
それが目の前のチンピラと西ヶ原さんが幼馴染だという事実に影響されたことなのかはわからない。ただなんとなく、いまは話すべきじゃないと、そう思ったのだ。
「アタシに……何かできること、あると思う?」
「どうでしょう。ご自分で考えてみてくださいよ」
「……うん」
和泉は最後のポテトをほんの小さくかじった。
西ヶ原さんは、あの日、夏休みの直前、ぼくの目の前で校舎の四階から飛び降りた。彼女を悩ませていた自殺衝動は、見事に取り憑いた相手を死地に誘うことに成功したのだ。
やかましいサイレンの音、赤色灯の毒々しい輝き、救急隊員や教師たちの囁き声。灼けるような夏の午後と死の気配は不思議と親和性があった。
そしてぼくは――。
担架に横たわる肢体を前にして、やっぱりぼくは、どうしようもなく震えていた。そいつが――本物の恐怖ってやつが、羽虫のように全身にまとわりついていやがったんだ。気を抜けば、たちまち大声で叫んでしまいそうだった。打ちのめされちまったんだ、悪意や死に。
しかし、驚くべきことに彼女は死ななかった。
高さが足りなかったのか、着地した先が花壇だったからか、体勢が良かったのか悪かったのか。ともかく幸か不幸か、彼女は九死に一生を得た。
死ななかっただけで、果たして、この先生きていけるのかはわからない。
ともかく、西ヶ原さんはいま郊外の病院で眠っている。
取引はまだ有効のようだ。