第五話、梅雨明けの空
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期末考査はまずまずだった。
試験前の一週間は部活動が休止になるから、毎日のようにパラビで働いて、帰宅後に勉強という具合だったがとくに不安はなかった。
そして夏休み目前のきょう、テストが返却された。ぼくはテストが好きだった。成果が目に見えるというのは、張り合いがあるし少なからず自尊心を満たしてくれる。本当はそんなものに大した価値なんてないことはわかっていてもだ。
現代文以外は、軒並み八十点を超えていた。悪くない出来だった。この高校のレベルが決して高くないことを考慮に入れても十分な点数だ。ぼくは満足だった。
「おお、野方、相変わらずすげえな」
隣に座る坊主頭の二宮がぼくの答案用紙を覗いて言った。
ぼくは笑った。二宮は赤点が数科目あった。
「二宮みたいに野球で忙しくないからな。今年はどうなんだ? 甲子園いけそう?」
「ばっか、おまえ。甲子園なんて考えたこともねえよ。地方の三回戦まで行けたらラッキーなんだからさ」
「ふうん。まあ、応援してるよ」
「さんきゅ」
二宮の目は輝いていた。こいつはきっと野球のことしかいま頭にないはずだ。言葉とは裏腹に絶対甲子園を狙っているんだ、賭けたっていい。
いいもんだった。全力で何かに没頭する奴を見るってのは。もしも甲子園に出場したら、応援しに行こう、ぼくはそう決めた。
終業式まで暇になった。周りはテスト結果で盛り上がっている。一喜一憂という感じだった。浅木はすでにどこかへ消えていた。
テストを鞄にしまい込み、席を立ちあがったぼくは、教室の出口にこちらを見てにやにやと気色の悪い笑みを浮かべている和泉の姿を発見した。長い金髪は目立っていた。生徒の幾人かは和泉を指してなにやら内緒話をしているようだったが、本人はどこ吹く風だ。さすが不良、肝が据わっているが、見習いたいとは思わない。
和泉はぼくを手招きで呼んだ。
ぼくは無視して、和泉の立つ反対側の扉から教室を出た。
「おう、野方」
後ろから和泉が不躾に声を上げる。
大方、煙草の催促だろう。切れているといつもこうだった。そろそろ代金を請求してもいい頃だ。
外は筆舌に尽くしがたい暑さだった。ワイシャツから出た腕がじうじう焼かれているのがよくわかる。一時間もぶらついてれば別人になれそうだ。
ぼくらが旧校舎裏にたどり着くと、先客がいた。
ぼくは思わず目を見開く。
男女が激しくお互いを求めあっていたのだ。真昼間から、校内で、このくそ暑い中、猿みたいに。
男子生徒はズボンを脱ぎ、女子生徒の方は上半身が下着だけだった。むやみに過激な光景だった。肌と肌のせめぎ合い、粘膜の交渉。
ぼくと和泉は顔を見合わせる。和泉はちょっと顔を赤く染めていた。
ぼくとしてはこのまま彼らの情事を見物するのにやぶさかではなかった。純粋に興奮したし、ぼくらの存在に気が付いたとき、破廉恥どもがどんな顔をするのかにも興味があった。けれど、和泉がそれを許さなかった。
「行くよ」
彼女が小声で言う。
ひとりこのまま残ってもよかったが、ぼくはしぶしぶ従ってその場を離れた。
梅雨明けの大気の下の校庭を横切って、プールの隣にある屋外トイレで一服することにした。一昔前のトイレで、頭上が吹き抜けになっていたため、いまは滅多に使われていない。夏休みにプールへ入りに来る男子生徒がたまに利用するくらいだ。
ぼくと和泉は男女それぞれの個室に入って煙草に火をつけた。案の定、金髪女は煙草を持っておらず、五本ほど巻き上げられてしまった。
個室の壁に背中をあずけていると、頭の上から大きな蛾と一緒に和泉の声が飛んでくる。
「アンタさ、あのまま見るつもりだっただろ」
「そうですけど」
「他人のセックスなんて見て面白いのかよ」
「知りませんよ、初めてだったんですから。和泉は見たことあるんですね」
「ねえよ」
「ないくせに面白いか面白くないか、どうしてわかるんですか」
「……むう」
「わからねえなら、言うなよ」
吐き捨てるように言うと、和泉は「あはは」と豪快に笑った。
しばし沈黙。ぼくはゆっくりと煙草を吸いこんで、扉の落書きに吹きかけた。落書きには山口センコーぶっ殺す、と書かれていた。ずいぶん古いもののようだが、山口先生はぶっ殺されたのだろうか。
「ねえ和泉。ぼくはさ、金がないんですよ」
「あん?」
「煙草くらいご自分で買ってくださいよ。それときょうメシ奢ってください」
これまで、おおよそ数千円分の煙草をカツアゲされていたのだ。吝嗇だと思われたってかまわない。
和泉は気のない返事をした。
早くもぼくは諦めた。ふざけやがって、そろそろこのアバズレとは袂を分かつべきかもしれない。そのときは、絶対に金を請求してやる。
ふたたび沈黙。
ぼくは、ここ最近――というよりもあの首吊り以来、西ヶ原さんの発作が全然なかったことを考えた。もうひと月以上経っている。これでぼくの役目の二十分の一が過ぎ去ったわけだ。このペースなら別段文句はなかった。当初はどうなることかと思っていたが、彼女が言っていた通りで、いまのところ問題はない。しかし、この先どうなるかなんて全然わからなかった。立て続けに、なんてこともあり得るわけだから。
夏休みはどうするのだろう、とぼくは思った。
一応、西ヶ原さんの住所は聞いて知っていたが、ぼくの住む町から自転車で二、三十分の距離にある。ひと月に一度来る計算なら、夏休み中に当たらなければありがたい。わざわざ暑い中、汗水たらして自転車を漕ぎたくはなかった。
いやいや、待てよ。そういえば、全然考えてなかったことがあるぞ。
西ヶ原さんの発作は飛び降りを含めれば二回とも校内だったわけだが、それは平日の昼間に起こったことだった。では、もし休日や夜に自殺衝動の発作が起こったら、いったいどう対処すればいいのだろうか。彼女が家にいて、ぼくは家にいた場合は? それならまだいい、ほかにも状況はたくさんある……あれ? いまさらだが、ぼくはあまりに途方もない取引をしてしまったのではなかろうか?
「なあなあ、野方よお」
ぼくは物思いから引き戻される。とりあえず、悩むのは後回しにして(考えるのが面倒だったというのが本音だ)、和泉の声に耳を傾けた。
「夏休みはなんか予定あんの?」
「アルバイトですかね」
「ふうん。じゃあ暇なんだ」
「いまの聞いてましたか? アルバイトするんですよ」
「毎日ってことはないでしょ」
「毎日ですよ。やることないですからね」
「うわっ、マジ?」
「その予定ですね」
和泉が引き攣った笑みを浮かべているのが容易に想像できた。
「さみしー男だねえ」
「まあ、そうなりますね、客観的に見ると」
「なあ、野方」
「なに」
「ちょっとは空けとけよ、夏休み」
ぼくは煙草の煙を真上に吐いた。
ふいに、どこかでセミが鳴き始めた。ミンミンゼミだった。
「嫌ですね」
「いいから、空けとけって」
何様だよ、おまえは、チンピラが。
そう思ったが、口には出さず、ぼくは舌打ちするだけにとどめた。もう何を言っても無駄だ。無視するほかない。どうせ、ただの気まぐれだ。
終業式の時間が近づいてきていた。
ぼくは和泉に声をかけてトイレから出る。
真っ白だった。いや、モノクロだった。容赦ない夏の日差しが、世界から色を奪っていた。
とにかく暑かった。太陽はイカれちまったみたいだった。あるいは、地球かもしれない。どっちだって一緒だ。
そんな中でも、和泉の肌は際立って白い。それはもう白磁みたいだった。それがぼくにはどこか嘘くさく感じられた。
ぼくらは校庭の脇の並木の下を歩いて校舎へ向かった。渡り廊下を抜けてガラスの扉を開く。二年のクラスは二階にあった。ぼくらは黙って階段を上がる。終業式までの暇を持て余した連中が、おもいおもいの場所でのんびりお喋りを楽しんでいた。真面目なやつはすでに体育館に向かっているようだ。
三階に達したところで、後ろから声をかけられた。
「ねえ、ちょっと」
ぼくと和泉は同時に振り返った。
階段の踊り場のところに、見覚えのある茶髪がいた。高尾レミだ。
何も言わないで眺めていると、和泉が怪訝な面持ちをして、高尾レミからぼくに視線を移す。
「なに、知り合い?」
「いやべつに。知り合いってわけじゃないですね」
高尾レミは、しまったという顔をしていた。後悔とも受け取れる顔だ。おそらく、ぼくが和泉を連れ立っているとは思ってもみなかったのだろう。別々、たまたま前後を歩いていた関係、そう思ってぼくに声をかけたにちがいなかった。まあ、その判断が間違っていると言い切ることは難しい。ぼくだって、和泉を連れて歩いているつもりは微塵もないからだ。しかし、現状をどう捉えるかは人それぞれ。高尾レミはぼくらを友人のように見なすだろう。
和泉は不良だ。それも校内に名の知られた不良だ。こんな潔いまでの金髪はコイツくらいだろうし、目つきも頭も素行も悪いときた。当然、校内一の悪名をほしいままにするのなんて造作もない。それに、風の噂だが彼女は喧嘩もするらしい。相手は男女関係ないとのこと。ナイフでも持ち歩いているのだろうか。危険なやつだ。
「おい。アタシになんか用?」
「えっと……そっちの――」
「ぼくにあるらしいですね」
高尾レミは委縮していたようで、声がわずかに震えていた。この前のヒステリックな勢いが嘘みたいだった。
「ということだから、和泉」
ぼくがそう言うと、和泉はじっと高尾レミを睥睨していたが、ふいに興味を無くしたかのように視線を外した。
「じゃあ、野方。夏休みどっか空けとけよ。メールするから」
「さっき断りましたよね」
「メシ奢ってやるからさ」
「……わかったよ」
ぼくが了承すると和泉はにいっと歯を見せて笑った。
べつに食事に釣られたわけではない。間違いなくこのまま愚劣な押し問答が続くと思われたので、落としどころを作っただけだ。
「空けとかなかったらぶっ殺すからな! じゃあね」
録音しておけばよかったと思った。なにかの証拠に使えたかもしれないのに。
踊り場で呆然と立ちつくしている高尾レミに、ぼくは声をかけた。
「それで、何の用?」