第四話、ウミウシとヒステリー
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浅木とはケツの青い――それこそクソを漏らしてはびいびい泣き喚いていたガキの頃からの知り合いだった。近所だったんだ、住んでるところが。
浅木は度の強い牛乳瓶の底みたいな眼鏡をかけ、いつも何かを思案しているような景気の悪い顔をしていた。一癖も二癖もある男だったが、意志は強く、行動力に恵まれ、頭もよかった。高校一年は別のクラスだったが、今年は同じになった。
知り合いと呼べるものはわりといたが、ぼくにとって友人は浅木ひとりだけだった。それはたぶん、ぼくがいまみたいに捻くれる前から付き合っていたからだろう。かりに高校に入学してはじめて、おまえは奴と友人関係を結べるかと問われれば、まずもって否と断じることができる。これは相互的な話で、つまり浅木だって同じことを思うはずだ。
「紛争真っ只中の国に住む人はさ、普段何考えて生活してるんだろうな」
昼休み、がらんどうの講堂。
舞台に向かって整然と並ぶ椅子たち。
ぼくと浅木は中央あたりに腰を下ろして、講堂に漂う独特なにおいを堪能していた。このにおいを嗅ぐためだけに、ぼくらはせっせと講堂まで足繁く通った。
「なんだよ、いきなり」
椅子の背もたれに頭を預けていた浅木は、つぶっていた目を開けて不快そうに言った。眼鏡は膝に置かれている。
「いつ死ぬかわからない人間の話だよ」
「また、わけのわからないことを考えてるな。知らないよ、そんなことは」
「想像してみろよ」
浅木は面倒そうに眉をひそめた。
「認知バイアスがあるんだよ、たぶん。みんな自分は死なないと思ってるんだ。一秒後に爆撃されるって本気で考えてたら、そんなところにいられるか? すくなくとも俺なら逃亡するね。つまり、普段通りなんだよ、結局さ」
「そういう話じゃないんだよな、ぼくが言いたいのは」
「どういう話だよ?」
「死の捉え方と生活の関係だよ」
「さっぱりわからん」
「だからね、近々死ぬ可能性が他人よりも圧倒的に高いそいつはさ、どういう態度で生活と向き合っていると思う?」
浅木は「なるほど」と頷いて、ちょっと考えてから続けた。
「それは本人の心のありよう次第だな。死にたくないと考えていれば、つらいしやり切れない思いだろう。それでもあがくんじゃないか。一方で、諦めてるようなやつは、それなりの受容的な態度をとるだろうな」
「だよな」
西ヶ原さんは前者にちがいなかった。ぼくのような見知らぬ他人を使ってでも生にしがみ付こうとしているのだから。
生きることは幸せなことだ、という信念を彼女は持っているのだ。でなけりゃ、弁当を拵えてくるなんて馬鹿げたことを申し出るほど間抜けな感謝なんてするはずがない。ぼくに心底感謝してるんだ、彼女は。それは伝わってくる。生きることは何にも代えがたいことだと、彼女はそう信じているのだ。
では、どうして自殺衝動なんかに悩まされているんだろう?
嘘みたいな話だ。生の尊さを知っている人間が、どうして? やはり精神的な病なのか?
しかしぼくはそれを考えるのはご免だった。なにせ、彼女が病を否定しているのだ、当人以外が頭を使ってみても答えが出る問いだとは思えなかった。
「もういいか? 俺は眠い」
浅木はまた目をつぶってしまった。午後の授業には出ないつもりなのかもしれない。
ぼくはそっと席を立つと、旧校舎裏を目指した。
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何の変哲もない日々が数週ほど続いた。
ぼくは気が遠くなるような退屈な日常を存分に謳歌しながら暮らしていた。刺激のない生活は嫌気がさすものだが、かといって緩慢な安定が悪いわけではない。人間ってやつはそんな中からでも、楽しみをどうにかこうにかほじくり出すものだ。我が意志の与り知らぬ外から、否応なく事を押し付けられるのは、気持ちのいいもんじゃない。ほどほどが肝心だった、何事も。
ぼくは期末考査が近づいていたこの頃、ウミウシの成育に心を砕いていた。簡潔な日常をすべてウミウシに捧げていたと言っても過言じゃないくらいだ。毎日生物部に顔を出しては仔細に観察して、食性の把握に努め、餌を試行錯誤し、水質を徹底的に管理した。
それでもウミウシたちは、よく死んだ。
餓死が多かった。憐れでしかたなくって、そのたびにぼくはひどく落ち込んだ。部員たちもみんな、この世の終わりが来たかのような顔をしていた。
慣れないものだ、そいつは、生命の終わりってのは、いつだって新鮮で、おぞましく、無力なぼくらを残酷なまでに打ちのめす。
一方で、室内で栽培している水耕野菜たちは、すくすくと狂ったみたいに育っては収穫されていった。豆苗だとかブロッコリースプラウトだとかは女子部員に人気だった。あとはカポックとかオリーブとかハーブだとか、そういうのを育てていたが、ぼくの眼中にはなかった。とにかくいまは、ウミウシ一筋だった。
朝の観察を終えて、ぼくは部室をあとにした。授業が始まるまでまだ時間があった。
元気がないように見えたウミウシの給餌をあれこれ考えながら廊下を歩いていると、通りがかりの教室から人の気配がして、ぼくはふと足を止めた。二年D組だった。
なにげなく教室の中に目を走らせる。
その行為は手早く流れるような所作で行われていた。習慣的とさえ思われた。
べつに、これといって何の感情も湧いてこなかったぼくは黙ってじっと眺めていた。
しばらくして、誰かの机の中に、雑巾みたいな薄汚れた布(ところどころ黄色だったり黒だったりした)をごっそり詰め込んでいた女生徒がぼくに気が付いた。目を見開いて、呆然と佇んでいた。そいつは髪を茶色に染めていた。
ぼくは手を挙げる。
「おはよう」
それでおしまい。踵を返して、そこを離れる。
ゆっくりと自分の教室まで歩いていると、背後から足音が聞こえてきた。
「待ってよ!」
だしぬけに腕を掴まれる。ぼくは驚いて振り返った。
何か言う前に、茶髪の女生徒がぼくを引っ張っていく。
階段を上って屋上に至る踊り場だった。
朝の陽光が天窓から降り注いで、女生徒の茶髪が光り輝いていた。それが面白くて、ぼくは噴き出しそうになった。
「アイツが悪いの! だって、いっつも私よりも目立ってるんだよ。そんなの許せないじゃん。先輩だってアイツばっかり。みんなアイツなの、ねえ、そうなんだよ! ユウヤだってカズくんだってみんなっ!」
唐突に、女生徒は唾を飛ばして捲し立てた。もとは愛くるしい顔をしているのだろうが、無意味な糾弾で必死なそれは、見てられないほど醜かった。
なおも茶髪は続ける。
「読モだってしたことあるのに。なんで? 何か言えよ! ていうか、黙ってろよ、さっき見たこと。なあ、おい!」
言いたいことはわかった。
西ヶ原さんは二年D組で、陰湿ないじめを受けている。その加害者のひとりが嫉妬に狂った目の前のコイツで、けれども、そんなことはどうだってよかった。ぼくはウミウシのことで頭がいっぱいだったんだ。
「名前は?」
ぼくが尋ねると茶髪はギクリとした。
「名前は?」
「……高尾レミ」
高尾レミ。
ぼくは心の中で呟いた。
何度か反芻しないと翌朝には記憶から抜け落ちてそうな名前だった。
「ぼくは野方。おい、高尾レミ。あんたのしょうもない鬱憤晴らしなんて全然興味ないんだ。誰にも言わないし、見たことも忘れるよ」
ふとぼくは、和泉と引き合わせたらこの女生徒は殺されるんじゃないかと思った。ネズミを駆除するみたいに、コロっと。
高尾レミはぼくの言葉をまるまる信じてはいないようだったが、ヒステリックは治まったみたいだった。その代わり、なぜか媚びるような表情を浮かべて言った。
「ねえ、キスしてあげよっか。ちょっと言うこと聞いてくれたらもっと先もいいよ?」
彼女は自身の体で平穏無事な学生生活を購おうとしているらしい。
ぼくはその変わり身の早さに呆気にとられた。素直にすごいと称賛したくなる。なんという実際家だろうか。顔もかわいいし、高尾レミはかなり人気なのだろう、西ヶ原さんの次くらいには。そしてそれが許せないのだ、後塵を拝しているのが。難儀な性格をしている。ちやほや馬鹿なのだ、たぶん。
ぼくは面倒になった。断れば厄介なことになるのは目に見えている。こういう手合いは執着心旺盛なのが定石だった。
「ねえ、どうする?」
ぼくは黙って少しかがむと、高尾レミの唇にキスをした。
不意打ちだったからか、彼女は目を白黒させていた。唇はすごく柔らかかったし、近づくといいにおいがした。
「キスさせてもらったから黙っているよ。これでいいだろう? 本当にどうでもいいんだ、いじめとかそういうの。たださ、くだらなくない? くだらないよな? くだらないだろ」
そろそろ生徒たちが登校してくる時間だった。
優等生である西ヶ原さんも遅刻せずやってくるだろう。そして、机の中を覗いて――覗いて、彼女は何を思うのだろうか? まあ、いいか。
ぼくはさよならを言った。
いまだに高尾レミの茶髪は太陽で輝いていて、今度こそぼくは笑った。